590話 この世界は俺には狭すぎる

昨日来(さくじつらい)の安産論では、「お産というのは、赤ちゃんが自発的にお出ましになる行為である」と定義づけた。


安産するということは、より母体に負担の少ない形で、赤ちゃんが「自発的」にスムーズに胎外へ満を持してお出ましになる、ということである。


安産を志すお母さんは、上記の定義に沿って、より上質の「お出まし」が実現するように準備を整えればいい。条件と言ってもいい。


言い換えれば、臨月の際に赤ちゃんがどうなっていればいいのか、ということである。筆者が考えるに、赤ちゃんに

「俺は(私は)この子宮の中でやれることはやり尽くした。この世界は俺には狭すぎる。広い世界が待ってるぜ」

と思わせればいいのである。

もしくは、

「飽きた」

と思わせればいいのである。 

そのために何が必要かということを心理面と生理面から分析してみよう。

一つは、自発性を育てるということである。大人になってから引きこもったって困るのに、子宮の中に引きこもられたのではますます困る。そのために、名前をつけ、折にふれ話しかけ、独立した一個の人間であるということを知らしめるのである。


生理面から言えば、おなかの中で発達すべきものを、思う存分発達させきる、ということである。妊娠するとお母さんの食の好みというのはがらっと変わる。それは赤ちゃんがほしがっているものが母体に伝わるからである。ここを生半可な栄養学の教科書に沿ってやるのか、命がけで訴える赤ちゃんの声を聞くのか、という「決め所」となる。


筆者は、時代とともに変わる教科書よりも、一年足らずの間に何千倍も何万倍もの大きさに育つ赤ちゃんの要求に沿った方が、今回の安産(暴)論にはかなっていることを確信する。


次に、のびのびと発達させるためには、発達することに専念できる環境にすればいい。つまりストレスをかけないということになる。目の酷使は、骨盤を締めてしまう。母親のおそれの感情やストレスも胎内環境を悪くする。妊婦さんはパソコンやらメールなどはできるだけ避け、ゆったりと過ごしていただきたいのである。

亭主をはじめ妊婦さんのまわりの人々は、妊婦さんを女帝と仰ぎ、女神とあがめ、穏やかに心安らかに過ごせるようにと細心の注意を払うのである。がんばれ亭主、一年足らずの辛抱だ。


(つづく)