591話 この世界は俺には狭すぎる 2

とにかく十分に発達すべきものを発達させることは、心理面から言っても重要である。


人間というのは、はなっから出来ないことには深刻には悩まない。人間が悩むのは能力があるからである。出来るはずなのに出来ないことを悩むのである。周りの人はできるのに、どうして自分だけ、という時に悩むのである。

鯨のように一時間も水に潜れないとか、トンビのように飛べないとかいうことで深刻に悩む人は少ない。

つまり、赤ちゃんに見たり、聞いたり、匂いをかいだり、味わったり、うんちしたり、手足を動かしたりという能力を臨月までに十分にそろえてしまうのである。使える道具をフルに完備してしまうのである。能力を備えることで逆に悩めるようになるのである。


車を買ったら走りたくなるのが人情である。竹馬を作ったら乗りたくなるのが人情である。機能がそろえば使いたくなるのは人情である。


そうやって穏やかに穏やかに子宮内で過ごした赤ちゃんは、世の中というのは平和なもんだと感じるであろう。母体の中で満たすべき「平和な感情」というものは、満たされるであろう。それは同時に外界への余分な恐れというものを育てないことにつながるであろう。


子宮内での幸せが足りないと、うちのひろきが12時過ぎに寝ると、朝の7時を過ぎてもいつまでたってもふとんから出てこないように、子宮の中で「あと5分だけ」とか言ってぐずぐずしかねない。

質のいい睡眠が、心地よい目覚めと活動的な朝につながるように、赤ちゃんは子宮の中で「ぐっすりと育つ」のがよろしいかと思う。


そうやって平和と愛情に満ち満ちてしまうと、人は自動的に次のステージを求めるのである。つまり「平和な子宮内に飽きる」のである。


おまけに体の各パーツも質よく発達して「使える道具」がそろってくると、ますます子宮内に飽きるのである。子宮の大きさにも限りがあるので、生理的にも窮屈だ、ということが自覚できる。


能力もそろう。平和な世界に飽きる。ましてやお母さんが女帝として生活できる環境であればあるほど、赤ちゃんも「外ってなんか楽しいんとちゃうの」と思ってしまうに違いない。


実際産まれると楽しいことばっかりでもないかもしれないが、少なくとも赤ちゃんにはそう思わせた方が得である。

さて、いよいよ分娩である。


しかし、「当て馬」論というのも生殖行為であると考えると、最近のブログは「妊娠出産ブログ」になってしまっている。うんこネタとともに、性ネタというのは、どうしてこんなに筆が進むのであろう。

うんこネタはいいけれども、どうして妊娠出産未経験の45歳のおっさんが、熱く安産を語るのであろうという話はまたの機会に。話は分娩時の心得、体位などに進む(と思う)