607話 頑張らない 氣・もち・いい! 前編

体が餅のようになってくると、今まで見えてきた景色とずいぶんと違って見えてくるものがある。


「頑張る」「がんばれ」なんていう気安く使っている言葉が、実はとんちんかんな見当はずれな励ましではないか、というようなことがその代表である。


餅のような体になった結果、我が身対比(当社比のようなもの)で言えば、たくさん動いているのに疲れない、睡眠時間は減るが、昼間眠くなるのはたくさん寝た日の方である。物事に対する集中力は増す結果、字はうまくなるし、尺八の音色はいいし本は早く読めるし、内容が頭に入る度合いは増える。本業の整体も楽になるし、集中する時間も増えるし、受ける方の変化も大きいし、満足度も高い。


もちろんもう一つの本業のヨガの方も、体の柔軟性は飛躍的に増し、ポーズ中の集中度は雑念が皆無に近くなる。すじや筋肉をストレッチしている感覚が次第に減り、かわりに、粘土がじわじわと曲がるような体感が主となってくる。


そういう「いいパフォーマンス」(あくまで自分比だかんね)をやっている際には、決して頑張っていない。力んでいない。


何かをやる際に、「がんばれ」というのは「いい結果につながるように頑張ってね」という意味で使っているが、いい結果が出る時には実は頑張っていないのである。


頑張るという表現の際、例えば運動会で走る行為などを想定すると、頑張るというのは、より強い筋肉の負荷に耐えましょうね、というような意味あいを持つ。なんらかの筋(きん)の緊張の感触をもって「あ、俺、頑張っているみたい」と認識する。


ところが、いい尺八の音色が出ている時、満足する字が書けている時、筋肉の緊張は感じていない。今のところは、筋肉の運動を強く必要とする「走る」とか「階段や坂を上る」という行為でも、一カ所の筋肉に緊張が蓄積するという感触がない。


ぴーんと張らないで、「ぐにゅぐにゅ〜ん」と力点が移動している感じである。だから今までなら「このあたりで張りが来るはず」という時点になっても、その「キンキンの筋肉の張り」が訪れない。


「筋肉の緊張」の手応えとは別の、【なめらかでやわらかで、「今までの力感」をともなわない、しかしケースによっては安定感をともなった強さを持つ、生命感覚に満ちた手応え】の感覚はある。


その感覚をとりあえず「気」と呼び、体感と触感が餅のごとしという実感を合わせて造語すると「氣・もち(餅)・いい!」となる。まこと正月らしい実感である。