676話 バッテリー 2

もちろん、映画でも音楽でも恍惚と我を忘れるというものとは出会う。


しかし、表現されるものから極端に「はみだす」ことを許されないような作りになっていると思う。映像や音は、かなりそのものずばりで、限定する要素が強い。


おそらく本は、読み手によって全然違う本と言ってもいいぐらい、読み手が能動的にかかわるものなんだなあ、ということを再認識したのである。ということは。いい文学というものは、誰の頭にも同じ情景が浮かぶという描写力よりも、一人として同じ情景にならないぐらいに、読み手の想像力を喚起するものが、実は優れた作品ということになるのかもしれない。



映画化された作品を見たら、すくなくとも登場人物の姿形は特定される。さいわい筆者は映画は見ていないので、筆者のイメージの巧や豪が躍動しているのである。


そうそう、華麗なる一族


あれは最初の2回分ぐらいテレビを見た後に、3冊一気に読んでしまった、・・・・ら、本の中の登場人物が全てテレビになってしまった。北大路欣也(ってこんな字だっけ)や木村拓哉長谷川京子鈴木京香のまんなになってしまった。


すると、読んでいる手応えと微妙にずれている配役もある。だいたいテレビ化する段階で、主役を木村拓哉に据えなおしているし、弟の銀平なんか、あんなに感情はださないぜ、というのが原作の味わいだ、なんて思う。


いずれにしても華麗なる一族は読み終える前に映像を見たからいいようなものの、バッテリーは、筆者の頭の中で完全にもう登場人物が踊っている。すると映画を見てしまうと「違う、違う、豪はこんなんじゃない!巧はこんなんじゃない!青波はこんなんじゃない!」と文句をたれること必定である。


だから、きっと見ない。「俺のバッテリー」が出来上がっているのである。


そうやって読み手が能動的に作品に入り込んで行くのであろう。そして、読み手が積極的に参加するために、おそらくは感覚の動員量が映像などよりも一回り以上多くなるのではないか。その結果として「わくわくホルモンが多量に分泌されるのである。


受け身ではこうはならない。

だから、漫画も映画も別に悪くはないし、それでなければ表現できないものもあるから、まったく否定しているわけではないけれども、読書を通してしか得られないものの大きさを感じるのである。


だから、ひろ、もうちょっと本読め。