677話 うまいとんかつ

11日

今日は、うまいトンカツ屋に行く。あさちゃんは卒業前でクラスメートと遊びに、まいちんは友達のところでお誕生日会。昼間ひまな親父と息子で昼飯に行くことにする。


店の場所は分かるが、店の名前は分からない。


この店のことを教えてくれた義父も「うまいトンカツ屋」と言っていた。そして先日一足先にそのお店に行った家内も「うまいトンカツ屋」と言う。誰も店の名前を言わない。知らないようである。

うまいので有名なお店である。が、有名というのは「名前が有る」と書くのである。したがって、誰も名前は知らないのに有名というのはおかしな話しであるが、しかし人はそのトンカツ屋に押し掛けている。


行ってみて訳が分かる。


店の前の駐車スペースに大きく黒々と4メートルを優に超える看板があり、そこに


「うまいトンカツ」


と書いているのである。


おおお、なんという自信。断言。ここまで言い切るとは!



お店は、20人でほぼ満員になる広さの「洋食屋さん」である。トンカツ以外にも「チキンライス」とか「オムライス」などもあるお店である。店内は満席で、次の順番を待つ7〜8人の人が壁にへばりついて並んでいる。


待つこと10分、トンカツとヒレカツ、がやって来た。


確かにうまい・・・・・・が、この行列の人数と比例するほどうまいか、と言われると、そうでもない。


親子二人で無口に食べること5〜6分。うまさを味わえない原因が分かった。


慣れないナイフとフォークである。食べたい速度で食べられない。食べたい量を口に運べない。口の中に放り込みやすい形に整形して食べ物を口に運べない。


みなさん、食事の味は舌でやっているとお思いでしょうが、少し自分の食事中の口の中を感じ取ってみると、決して舌だけで食べていないことがわかる。もちろん香りなども含まれるが、味蕾などついていない舌以外のところで、実に味わっているのである。

生ビールの宣伝にしょっちゅうでてくる「のどごし」なんていうのも、味ではないのであるが「うまいと感じるかどうか」という要素としては、きわめて重要な位置を占めていることがわかる。


「口中粘膜を通過する際の絶妙の摩擦感覚」(=のどごしのことね)もまた、それが加わることでより食を楽しめるという重要なファクターなのである。したがってのどごしを愉しむビールの場合は、のどにぶつけるように飲むのに適したグラスでみなさん飲む。ジョッキもそう。

ところが、ストローで飲むとのどごしは消失する。同じ中身なのに別の味になる。


温感、冷感、摩擦感、通過感、そういったものの総合で「うまい!」を感じているのである。


昨日の読書の話と同じで、やはり能動的に「食べる」という形式になるほど、本当のうまさが分かるものであるのだ、と筆者は思うのである。ファストフードというのは、そういうこちらからの働きかけがなくとも強制的に舌の上に味を直撃させるような、そういう味なんだなあと思っている。


こちら側の能力というのは、そういう「うまみのおしつけ」食べ物からは引き出されないのである。


ちなみに、筆者親子はその後お箸をもらって(カウンターの上には出ておらず、あれば即座にそれを用いたであろう)美味しく頂いたのであるが、その時点ではややさめており、再度、今度は最初っからお箸で食おうぜと雪辱を期すのであった。