714話 まっすぐでない

今日午前中は出張整体である。


つい昨日、あっちこっち「でばってばっかり」は再検討するぞ、などと書いた舌の根がかわわぬうちに、奈良県斑鳩(いかるがと読んでね。法隆寺のあるところです)の田園地帯の一軒家におじゃまする。


大きいばあちゃん、ばあちゃん、お母さん、おばさん、子どもたち(以上、最年少の世代からみた構成)の4世代の一族を調整。


午前中から伺っていて、ひとしきり終了するころにはお昼。リビングのテーブルの上にはごちそうが用意されており、筆者もお相伴にあずかる。


首が下を向いたままこわばったままの大きいばあちゃん、腕の痛みに悲鳴を上げていたばあちゃん、両手両足の不快感に悩まされていたママなど、それぞれに不快感が解消、または軽減されているので、筆者も大きな顔で心安らかに昼食をごちそうになる気になる。


おおばあちゃんの首は曲がったまま、ばあちゃんは腕を動かすたびに激痛に顔を歪め、ママは歩くのもつらそう、というのでは飯はのどを通らないが、みなさん(^-^)が出る程度には改善されているので、大きな顔で手巻き寿司をばりばりと頂く。


田園地帯の一軒家と書いたが、大きめにとった窓やガラス引き戸は、見事に周囲を借景していて、果樹園とレンゲ畑化した田んぼなど、春の新芽のむくむくとした、とってもい〜い雰囲気。


しみじみと眺める。いつまで眺めていても飽きない。午後の仕事がなければ、このままあぜ道に行って寝ころびたくなっていた筆者であった。


新大阪の道場周辺など、なかなか飽きずに眺めたくなる景色は少ない。


ここの景色の中には、ほとんど直線がない。翻って都会はきわめて直線的である。直線の組み合わせなので、ほぼ四角の組み合わせでビルも家も部屋も内装も家具もできている。


都会で生まれ育つということは、視覚情報の中にきわめて直線が多い、という環境で育つということであると言える。自然というのは、そこに生きているものがきわめて多く、季節で気候でその様相は変わる。昼と夜でも姿を変えるものもあり、季節でしか見られないものも多い。


人工物の直線に囲まれてそだつと、知らず知らずに「世の中というのは安定していて、計画的で、なかなか変化しないもの」と知らず知らずに思いこんでしまう面があるのではないかと思う。


自然の中で育つと、「世の中にあるものというのは、常にうつろっていて、次にどうなるのかというのは、ある程度の法則性はあるものの、とても断定できるものではない」というふうに見えてくるのではないかと思われる。


どちらの立場に立った方が幸せかというと、筆者は後者を支持する。「変わらないもの」などと思いこむと、裏切られた気持ちになる。「変わるのが自然」と思うと今を大事にし、変化にも対応できる。


そうか、家の中、部屋の中をなかなか片づけられないというのは、筆者の欠点だと思っていたが、直線的に片づいた部屋では幸せになれないから、その直線部分を少しでも変えようという、深遠なる大自然の真理がその底流にはあったということだったんだ。(ちょっと違うか)