734話 流れはもともとある

合宿では、ふだんの授業や講習会でやっていることから、とりたて新しいことをやったわけではないけれど、やはりところを変え、環境を変え、集中的にやることで気づくことも多い。


氣を養うとか、氣を流すという概念があるけれども、筆者が今使っている「氣」というものは「人為的に流す」というものとはどうも違うようだ、と思うに至った。


たとえば手の親指の「伸ばし」の感覚と同調する氣の流れ。


合宿では、親指の伸展方向に、こちらの手で氣を誘導すると腕は伸びていき、敏感な人ならつられて歩き出す、という実験と練習をした。

その自然に伸ばしたくなる方向を「氣の流れ」と呼ぶとする。自然に伸びるということは、そこにはすでに流れがある、ということである。流れがある以上その氣の流れている速度というものがある。それを無視して「ついてこい!」と誘導しても相手は動かない。


水の流れに漂う木の葉は、水と同じ速度で流れる。この場合の誘導も、意識的な操作をやめて「感じる」ことに切り替えて、相手の腕から親指に向かって流れているものに手のひらを浮かべると、こちらの手は自然にある速度で動き出す。

こういう速度(と心身の状態)で手が動いた場合にのみ、相手はつられて動き出す。


相手を操作する特殊な流れなどではない。すでにあるものに合わせているだけである。





なんて話を合宿の講習中に、あたかも10年も前から気づいていたかのように話す。でも本当は、その場で気づき、解説しているのである。そしてその説明を聞いて、一番「そうか、そうだったのか。なんてわかりやすい説明なんだ。納得した。いい先生だ」と思っているのは、何を隠そう話をしている本人なのである。