743話 三つの幸せ

「私は幸せだと感じている私」の客観的状況には、3つの可能性が考えられる。


一つは、不幸な状況に対しての感受性が異常に低く、かつ一般的には幸福感を感じない状況でも、ひとりご機嫌を保てる能力が発達している場合である。


二つ目は、私が幸せを感じている一方で、不幸を肩代わりして泣いている人がいる場合である。そして、その肩代わりやらしわ寄せが発生している状況に、筆者がまったく気づいていない場合である。

うう、ありそうな氣がする。


この1と2は、同時に起こる可能性が高いと思われる。自分の不幸に鈍感な筆者であるならば、人の不幸にも鈍感だということは十分に考えられる。これは、ほんとうにほんとうに十分に気をつけなければならない。


さらに今一つ考えられる。それは、内田樹老師が説かれる「自分の荷物は重く、人の荷物は軽い」の場合である。


一般的には、その逆が常識的解釈であろう。我がものと思えば軽く、持たされれば重い。


 我がものと思えば軽し 傘の雪


なんて俳句があったような気がするが、違ったかな?


しかし、駅の階段などで大きな荷物にふらふらになり、途方に暮れながら登っている高齢の方、かよわき女性などの荷物を「お手伝いしまひょか?」なんて声かけて、かわって持つなんてシチュエーションでは、その重さは変わる。


重さによって受ける心理的な状況が変わる。そういう状況であれば、荷物が重ければ重いほど、逆に気分は軽くなる。


そこで、内田老師は、重たい荷物(って日常のさまざまなこと)を重いと感じたら、それを「誰かのかわりに担いでいる」という状況に心理をシフトする。と軽くなる、というすばらしい技法を説く。


これって、整体と重なるかな。


受けられる方と「場」を共有するような状況を作り出して、一時的に相手の主として筋肉のこわばりとして現れる荷物の重さをとらえるようにする。そのアンバランスに対して、手を当てたり、こちらがかわりにその緊張と弛緩のアンバランスが調整されるような動きを出して、整った状態に相手がシフトするのを手助けするのである。


という具合に書いたりしているが、実際の調整の部分を説明するのは、むずかしい(って言葉にできない部分が非常に多い)


しかも調整の具体的な方法そのものは、こちらの視点が深まったり定まったりするに連れて次第に変わっていくし、人によって全然変えたりもする。


しかし、最初の「相手の背負っている荷物を一時的にこちらが担ぐようにする」という部分は変わらない。


はたから見てもわかりにくいが、相手の方が筋肉疲労として背負っているものの重さ、場所、強さ、質などの感触はかなり具体的である。


「・・・・という風に考えたら、気分が楽になる」という思考の中の世界ではなく「具体的に重さを肩代わりし、また調整後軽くなる達成感?のようなものをはっきりと体で感じる、ということを繰り返しているのである。


人の荷物の肩代わりによる充実感(重い荷物を軽く持てる充実した感触)と、重荷の取れた達成感を、15分か20分ほどのインターバルで、受けに来られた方の数だけ繰り返すのである。こりゃ、いい思いできるわな。

ということで、筆者は

(1) 人様よりも不幸を感じる感度が低く、
    何でもないことに異常に幸せを感じる特性を持つ

(2) しかし、人が肩代わりしてくれている筆者の不幸に対し
   鈍感な傾向も併せ持ち

(3) 人の荷物を日常肩代わりして持つという仕事の構造によって
   背負っているものが日々軽くなるというトレーニング(習慣)を
   日々繰り返している。


という3つの要素の組み合わせで脳天気にいられるということらしい。

後は、(2)の傾向を下げていけばいいわけだ。