784話 ラブリーな武術

忍者の初見先生のように、やられた方がもう訳がわかんなくなっちゃって、「丸め込まれながらも笑うしかない」、というような境地は目標にしたくなるような境地の一つである。


黒田先生のように、相手の手をやわらかく持って軽くふり、「目玉」と言えば目に、「肝臓」と言えば肝臓に、「○玉」と言えば○玉に衝撃波が届き、やられた方は軽く悶絶するけれども致命的なダメージは与えずに、身もだえしながらも笑わずにはおられない、というような技を拝見すると、これまたとても魅力を感じる。


つかみかかってきた相手が、関節を決められた覚えもないし、足を払われたわけでもないし、重心を崩された感触もないし、どこかをつかまれたり、引っ張られたり、押されたり、投げられたわけでもないのに、気がついたら畳にころがっていて、それ以上の攻撃体勢を取れず、戦闘状態が突然消失した、というような技がいい。


やられた覚えがないのになあ、という混乱状態のみがあって、毒気が抜かれたようになるのがいい。


「ちくしょう、この野郎、次は覚えていやがれ」というような心理が生まれないのが望ましい。


逆に言えば、技をかける本人でさえ、技をかけるとか相手を制するとか、攻撃するとかいう思いをみじんも持たない時にのみ現れるような技がいい。


したがって、勝者としての誇りもおごりも発生のしようがない、というのがいい。


できれば、攻撃してきた相手が、自分は今の今まで攻撃しようとしていた、ということを失念して「どうしちゃったのかな」「ま、いいか」というような境地にまで至れば申し分ない。


そういう展開を可能にする身体・心理の運用・操作を、じわじわと積み上げていくのがどうも楽しいらしい、ということがはっきりした。


かかる自分の「武術稽古性癖傾向」というものがあきらかになったので、その傾向にきわめてぴったりのネーミングとして、武術的動きの稽古のクラスの名称を、内田老師のブログのCanCam話からあやかって「ラブリー武術」としようかという思いが頭をかすめたのであった。


ら、思い出した。


近年の武術家の中でも傑出したお一人、内田老師も修業されている合気道創始者植芝盛平翁によって、とっくの昔、半世紀以上前に


「武は愛なり」


と看破されていたのであった。(もちろん、同じ土俵で論ずることなどできない次元であることは明白である)


恐れ多いことではあるが、やはり思いっきり具体的なラブリー路線を探求しようと思う筆者であった。