787話 4日目には別の私

見かけ上変わらないということは、その実、その内側ではものすごい速さで、作り替えが行われているということなのである。死体を考えれば分かる。筆者が生命体としての振る舞いをやめれば、死体である。今の気温で放置すれば、またたくまに腐敗が始まり、数日後にはゾンビのようになっているであろう。


あまりにも早すぎると感じる体内の作り替えの速度というのも、そういう視点でみれば「ちょうどいい」程度なのかもしれない。常温ではあっという間に腐ってしまうお肉のかたまりである人間が、40度近い温度に保ちながら何で腐らないの?ということを考える必要がある。



変わらない自分がある、と思っているのと、一瞬たりとも同じ自分というものはないと思っているのとでは、その取り扱い方に差が出て、さらには取り扱った結果にもずいぶんと差が出そうである。


光とは何だ、光とは粒子であり、波である、というのが物理学的な回答らしい。


粒子だとして扱って実験すると、粒子ならではの結果が出て、波だとするとこうなる、という視点で分析すると、ちゃんと波としての性質ならではの答えが出るという。


それにならって表現するならば、人間は「もの」であり「流れ」である、ということか。



人を「ある程度固定された物質」として扱っているのは現在の常識である。しかし「流れ」としての人間というふうに扱うと、確かにそういう答えも返ってくる。


筆者の体は、数年前に比べれば、現在の方が「ぷるるん、ほにゃほにゃ」である。関節くるりん体である。(しかし、愛犬すずなを見ているとはるかにおよばないごつごつ体である)


が、ピンポイントでゆるみきらない部分というものもある。相対的にはまだ硬い目だね、というエリアもある。


『人体とは物体としての性質だけではなく、流れの一部としての性質と実体を持つ』ということが腑に落ちたら、そういうピンポイント頑固部分が、みるみるゆるみつつある今日この頃なのである。


ものだととらえたら、押したりもんだり動かしたり、という物理的アプローチでなんとかすることになる。


流れだととらえれば、水面の形状が人型に保ち続けるような信号なり情報なり命令なりが出続けている、ということになる。信号や情報や命令を、押したりもんだり運動させたりはできない。


設計図通り、取扱説明書通りに使っていない部分が、こりやこわばりになっているのである。説明書きどおりに使えていないのは、自我意識がじゃまをしている、というのが今の筆者の体感である。


首をある角度に保つと、自我意識が非常に働きづらくなる。瞑想的と表現すると一番近い心身の状態になる。


それを保つと、手足が何ものかに導かれるように自動的に動く、という感覚が生まれる。


その感覚でしばらく歩いてもらうと、押してももんでも動かしてもいないのに、くびが一気にゆるむのが体感できる。


間違ったふるまいをそのままにして、押したり、もんだり、薬ぬったり、サロンパス貼ったりというのは、問題の解決にもならなければ、解消にもつながらない。