794話 笠岡へ 1

7日

今日は夕方から車で笠岡の長老・しゅんさん(または俊・酋長)のところへ一泊、明日は「龍馬の宿 建設中」の福山の鞆の浦へと車で出かける。


残念ながら、今回ためさんは都合がつかず、前泊はインスパイアO澤さんと二人。(明日現地合流組は3名)。愛車セレナ、愛称「ぱーぷーコンちゃん」(ほんのわずかメタリック紫かがったキタキツネ仕様なので、パープルコンちゃんが愛称の出自)で山陽道を西へ。
 

先日、うなぎさわさんがコメント欄でご指摘の「目標達成時の身体意識」の持てる可能性というのは、今筆者の中でとても旬であり、縦横無尽にいろいろと確かめている最中である。


目標達成、願望実現という時、主としてイメージが使われる。それを強化し、潜在意識に橋渡しをするために、映像として繰り返しイメージするとか、イメージに近い写真をぺたぺたと多数紙に貼り付けて宝地図を作るとか。玉石混淆ではあろうが、その中には優れた方法もあろうと思う。


しかし、そういう方法はそれに長けた方がすでにおられるわけなので、そういう方におまかせするのがいい。それらの隙間で見落とされているか、もしくは筆者のテリトリーの中で未開発の部分の可能性を感じているのである。


そういう可能性に気づいたのも、今「追憶ノ青いバラ」演劇プロジェクトにかかわらせて頂いているお陰である。


いかに「その役そのものをその場に生み出すか」、いかに「役という他人になりきるか」、「そのための訓練メソッドの再構築」という課題が課せられて毎週4人の役者とお会いしている日々である。


そして、「ほぼ他人になる」というのは、できないことではない、というのが筆者の確信である。


なんせ、毎日会員の方の「不調の部分」を肩代わりで感じ取って、調整しているのが朝から晩まで続くのである。他人の内部がどうなっているのか、というのを主として骨格と筋肉と氣で感じ取っているのであるから、そこに「感情」や「思い」という切り口を盛り込めばいいのである。


それに演劇で他人になる、と言っても100%なるわけではない。それではエクソシストになってしまう。そんな「イタコ」の集団のようなものは演劇とは言わない。


筆者も会員の方の体を「私の意識が」が「わがことのように」感じているのであって、それが的を得ている場合には、調整がうまくいく。役者も「私の意識」がありながらにして、私が意図せずその役が行うであろうふるまいを、さらに相手役と観客との共鳴の中で表現する、ということであろうと解釈している。


役者が、縁もゆかりもない役の人格(体感)を得ることができるのである。ならば、自分が自分がなりうるものを時間の先取りで感じることは、さほど困難なことではない、ということである。(実際に一人でやるのはむずかしいんだけどね)


そして、望ましい将来のイメージを体に呼び起こせた時、柔軟性、耐久性、筋力など全てが一気にアップするのである。