801話 演劇塾 1

14日

劇団未来演劇塾 「演技ってこんなんだったの! ワークショップ」に出かける。


15人ほどの参加者である。20歳代から60歳代まで年齢の幅はすこぶる広い。


およそ、スポーツにしても演劇にしても、現状の自分の心身に「何かを付け加える」ことによって高いパフォーマンスを得られる、という幻想が支配している世の中である。そして意識的な練習の繰り返しは、いつしか無意識化して考えないでもそのことができるようになる、というのが世の「練習」に対する常識である。


あえて幻想という過激な表現をつかったが、まんざら冗談ではない。かなり本気でそう考えている。考えているというより、確かめていくとそう考えざるを得ないというところに行きつく。


スポーツなどでうまい人間は、最初からなんとなくうまくいき、練習というのは成功体験を繰り返すような構造になっている。うまくいかない人間は、失敗を数繰り返している。


つまり、強打者の多くは、最初から打球がぽんぽんと飛び、うまくならないメンバーは、練習でも凡打の山を築く。うまくいった数のみカウントするが、10球打って8球凡打をすれば、凡打の練習を8回、まぐれを2回練習した、といって良いと思う。だからなかなか上達しない。


犬に「フリスビーやボールを投げてキャッチする」をさせると、あっという間にできるようになる。部分練習や分解練習ややさしいところから始める、というような人間の練習の時によく使われる手法なしに、本番を繰り返すだけであっというまに達人になる。


練習というよりは「今からやることは何なのか」ということを理解させる時間ぐらいで、十分できるようになってしまう。


ところが、スポーツの場合は、一日に3時間も4時間も練習に費やすわりには、下手な人間はなかなかうまくならない。


犬があっという間にできるのに、人間はなかなかうまくならないのは何故か、というあたりから練習そのもの、あるいは上達のために何が必用で、何を見落としているのかということを考えた方がいいと思う。


ところが、ここで首肩腰に肩胛骨と主要な関節・骨格をなめらかなに動くように調整して、同じ練習をするといきなり成功の確率が上がる。凡打の練習が打撃の練習になる。


「運動神経が鈍い」というような何を指しているのか分からない言葉がハバを利かせているけれども、上記のステップには神経の覚醒・能力向上刺激というのはプログラムされていない。


生まれついた設計図通りに体が動く条件を増やしただけである。


関節・骨格がなめらかに動くような条件作りの結果出てくる、やわらいだ状態を「自然体」と呼びたいと思う。自然体になると、体の各パートの癖付いた癒着が解除されるから動きの組み合わせの幅が広がる。


幅が広がった体を合目的的に組み直したものを「統一体」と呼びたいと思う。


何によって統一するかというと、運動の連携をなめらかにし、身体を痛める運動を避け、健康を損ねないようにという条件の付いた情報によって統合化される。その情報を持ったエネルギーを「氣」と呼びたいと思う。


そして、その「氣」によって統一した心身は、容易に個人の垣根を越えて影響を及ぼしあう。(筆者、そのお陰で整体ができるのである)それらがコントロール可能なレベルを「共鳴体」と呼びたいと思う。


そして、自然体が深まらないで統一体が深まることはなく、統一体ができないで、共鳴体になることもない、というのが筆者の体感的実感である。


演劇というのは、役者同士の関係性を表現するものである。一人だけ「芝居」がうまくても作品としてはうまくない。役者同士にさらに観客をも巻き込んだエネルギーの共感、共振、共鳴で生まれる感動の世界ではないかと思われる。


であれば、役者が不自然体、不統一体で、不共鳴体でありながら、「なんていいお芝居!」というのはあり得ない、というのがそこから必然的に導き出される結論である。


ランニングと筋トレ、ストレッチの向こう側には、ほとんど自然体も統一体も共鳴体も現れない。最も重要な要素を抜きにして稽古しているのではないだろうか?というのが今回のワークショップの講師として参加者のみなさんの前に立つ筆者の基本的なスタンスである。


というようなことをきちんと伝えて始められれば良かったのだが、なかなかそんなふうにはしゃべれなかった筆者であったので、参加のみなさんは、上記の文を読み直してね。