866話 肩の凝らない?演劇鑑賞

道場に泊まって、朝から滋賀県近江八幡へ出張。


さすが湖の国。駅のホームへ炎天下で乗り換え待ちをしていても、大阪環状線の駅のホームのように殺人的な熱気は漂ってこない。風はちゃんと夏の盛りを過ぎている。


ゆいちゃんは、予想以上の変化があり、まずは遠路おもむいた甲斐があった。相手の役に立てないというのはなかなかつらいものがあるが、その逆は嬉しい。本当は、できないことがあって、色々工夫や研究や稽古をして力がついて役に立てるるというのがさらにいい。


京阪で大阪へ帰ってくると、街中が「温風吹き出し口」のようになっていて、思わず京阪の『生ジュースバー』で「ミックスジューチュ」を淀屋橋と京橋ではしごで飲む。


劇団未来の稽古場へ行くと、S原トムとS本アマンダのお二人が稽古中。牧ジムさんとO浦ローラは、別会場で分離して、徹底してセリフ入れ。


脚本が出来上がるまでの『体の下地づくり』での段階ではやれることはけっこうある。本が出来上がって、セリフと主立った動きを入れる段階では、筆者は手が出せない。


週末に一度通し稽古になる見通しである。これで全体像の中の現状というのがはっきりしてからが勝負である。


役柄が憑依し、会場の氣を全身に受けて、会場そのもののリレーションスポットに導かれるがごとくセリフが体から紡ぎ出され、その体は統一した氣の体であり、皮膚の輪郭を越えて一回り大きい存在として、場に輝く・・・というイメージを持っているのであるが、果たしてどうなるか。


筆者は演劇は素人であるから、感じるままに提案し、やって見せて訓練メソッドを考えるということである。それが適当か採用するかどうかは、演出の八木氏の目の付け所による。筆者は感じるところでベストを尽くすまでである。


ところで、この公演は「事前予約者はフリープライス」という無謀な取り組みを行っている。


通常は前売りチケットをせっせと売る、ということになろうが、今回はその前売り券がない。実験的な試みであるので、多くの方にぜひ観て頂きたい。ところが、名のある劇団の評判の作品というわけではない。


であるので、「見に行くわよ〜ん」と手を挙げてくれた方には、お代を決めず、お帰り時に「これぐらいなら払っても良いわ」と感じた金額をお支払い下さい、というシステムである。


ちなみに筆者も舞台に立つ。もちろん役者ではなくって、「前説」というやつである。通常開幕前に「携帯電話の電源を切ってね」とか「写真撮影はやめてよ」というような説明をするのが「前説」である。


が、この公演は、頭で考えて演技を作るのではなく、チューニングしたオープンな心身に役柄が憑依したような状態になり、本当にその場に時空を越えて「物語そのもの空間」が出現した、というのを目指しているのである。(と八木さんは言っていた。筆者も目指したい)


芝居というのは、「その場に観客がいる」ということが絶対に必要な表現芸術である。ということは、役者と同じぐらい大事なのは観客ではないか。役者をチューニングして演じるというのが今回の試みのスタートの発想であったが、それなら可能な範囲で観客のみなさまもチューニングしてから観て頂いた方が、趣旨に合うのではないか、ということになったのであった。


肩の凝らない芝居」というのは耳にするが、肩こり、首コリが取れる演劇鑑賞というのはあまりないと思う。ということで、ほんじゃ、観てみよっかな?という方はこちらから

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って、今日の文章だけでは、本作品の魅力や見所にはまだまだ触れていなくって、筆者の前説の話だけになってしまっていてまことに不十分。おいおい追加してまいりますので、関係各位様、今日のところはご容赦下さい。