886話 かけがえない 1

昨日、『今がとりあえず80点だと仮定すれば、120点、140点の世界がどういうもので、それは行って行けないようものではないぞ』ということを書いた。


確かに、終わってみれば「ああすれば良かった、こうもできたのではないか」ということは出てくる。


しかしそれはすでに完成した最終形を観ているから、そこに至る過程で要素の削除や付け加えをすれば、結果の変化が予想できるのであって、いまだ稽古の途中であればどういう選択も一か八かであって、当たるとは限らない。台無しになる場合だってある。


終わってからつべこべいうのは簡単なのである。事件渦中の報道時のコメンテーターが、事件の全容が明らかになってからするコメントと同じ事を言えるかというと、100%無理なのと同じである。


そういうことに思い当たった上で、あらためて今回の公演を自己評価してみる。


こういう複数の人間が集まって手がけた「イベント」の成功度を図るのに「掛け替え(かけがえ)度チェック」という方法がある(って今思いついたんだけど)。


今回の公演にかかわる人々を、どの程度入れ替えて同じ結果を出せただろうか、という考察である。


そもそもの言い出しっぺの企画演出の八木さんを筆頭に、何はなくても役者の4人、製作のてきぱきS田さんと受付スタッフさん、さばきの名手・店長、今公演でかかと痛から解放されつつある舞台監督F原さん、骨盤と肋骨の妙・ダンスの達人F原先生、尻上がりに効果を上げた照明のN来さん、高所恐怖症なのにやぐらの上で奮闘した音響のMiyaさん、メイクのベルェベル・セクシーお姉さま軍団などなど(あ、ラブレター廃棄のM下君もいた)。


さらには劇団未来のみなさまの、並々ならぬご支援。


これら主要スタッフ・関係者を誰か別の人に置き換えた方が、よりよい結果が出る、と考えられる時は失敗である。


どこをどう触っても同じにはなりえない、これ以上は無理だという時、その完成度というか、それぞれの実力発揮度というか、総合力発揮度は高い。さらにメンバーは同じでも今・この時期・このタイミングでなければ無理だった、という時間的要素があるほど、これまた今回の完成度は高い。

(つづく)