887話 かけがえない 2

だいたい、筆者の参加のしかたはきわめて打算的である。何の生産性もやりがいにもつながらない色が濃ければ、上手に理由を付けて、撤退方向に身を置いたであろう。


常にそこにただようオーラを値踏みしている。失敗につながると思えば、すすすっと後に引く。どうしようもなければ上手に理由を付けて前説を拒否し、公演当日に別の仕事を入れたであろう。


いつでも撤退 国交断絶ができるように構えていたのである。(今の今まで忘れていたけど)


これはいたしかたない。筆者も自分と家族の生活が大事である。うまくいきそうなら関係を密にし、破綻しそうなら距離を置く。(意識的にじゃないけどね)


こういうスタンスでかかわりながらも、公演がうまくいけばいくほど、また自分にとって価値のあるものになればなるほど、筆者の記憶は「最初から主要メンバーの一人であった」というやや事実と違う方向へと塗り替えられていく。そういうまことに自分に都合の良い心理作用が常時働いているずる〜い筆者である。


それが、なんというか渦の中心へ中心へと引き寄せられていったのであった。


何か、筆者の意志以外のものも働いていたのも事実である。


筆者がいかに思い入れが強くても、稽古時間に稽古場に行けなければ、今回のように密に役者の調整はできなかったであろう。しかし、いくらでも稽古に行ける時間がある、というのは通常「仕事の予約がない」ということで憂うべき事態である。


ところが今回は、たとえば夜の整体の水曜日にはまったく予約が入らず、金曜日には立錐の余地もなく予約が入るというような「心おきなく水曜日には稽古に行けます状況」が幾度も幾度も出現した。


稽古のためだけに大阪に出るのはたいへんだと思っていたら、出張予約がセットで入る。


さらに、劇団未来や演劇塾の方々や、さらにその紹介でのお知り合いの方々が、続々と道場にいらっしゃって、これまた結果的にものすごく効率のいい広告宣伝になってしまっていた。本業になんら支障がなく、ふだんは夏枯れする8月が、合宿もやっていないのに過去最高益という盛況で終わったのである。


あの時、あのメンバーでなければできなかったね、という「掛け替えの効かない」体験を「かけがえのない」と言うらしい。


「かけがえのない体験」というのは、決して一人ではできないのである。


これが今回の筆者の「個人的」な評価である。社会的な評価はどうでもいいとは言わないけれど、社会的な評価がどんなに高いことよりも、自分にとって「かけがえのない体験だったかどうか」が筆者には大事なのである。


あ〜、おもしろかった。八木さん、声かけてくれてありがとう。一緒に(真剣に)遊んでくれたみなさん、ありがとう。