905話 小さい秋見つけよう 完結編

さて、そういう原理に乗っ取って、筆者もせっせと「不快な部分」を見つけては、歩きながら解消して楽しんでいたのである。


しかし、不快を探すというのばかりやるのも「いまいちかな」という感触もあったので、「快適なところに焦点を合わせればどうだろう」と思い試みてみた。


ところが、人体では不快な部分は存在感があるが、快適な部分というのは、実はまったく存在感がない部分なのである。食い過ぎたり痛くなったりしなければ胃の存在は忘れているし、ドキドキしなければ心臓だってあることを忘れている。


ようするに、一番調子のいい時というのは、体がないような感じがする、ということなのである。


さて、背骨の両脇で「何も訴えてこない快適な弾力に満ちた部分」を意識して歩くと、なんなんだ!という感じである。「うわっ」という感じである。あえて言葉で表現するなら、「透明感のある気持ちよさがみるみる広がる!」てな感じである。


ホロンの講習会で実施したところ、あの広い講習会場の長い面を、参加された10名の方は破顔一笑で延々「これはいい、これはいい、わ〜!」と歩き続けるのであります。


人間関係の中で、不平不満不足文句うらみつらみ悪口雑言を吐き出している御仁には、やはり声をかけねばと思うが、「平静・平穏・微笑・文句も言わずにやることやっている人」というのはついつい忘れがちになる。じゃあそういう人をかまう必用はないか、というと、それ相応の評価や処遇をした方が、さらにいい流れが生まれる。


人体だって、まったくそれと同じだったのである。


不快の部分をフォーカスする数倍の勢いで、体がゆるみと本来の統一性をぐいぐいと回復・発揮してくるのである。


だから、秋なのである。


何の苦痛も感じない、ただただ快適な秋を見つけたら、全身で味わうのである。小さい秋を見つけたら全身でアクセスすべきである。それこど、猛暑の中であなたが渇望した気温であり、湿度であり、涼風ではなかったか。


今まさにそれが手に入らんとしているのである。


全身を「秋化」すべきである。秋空のごとく透明感のある「より無いに近い体の楽しさ」を味わうなら、まさに今からである。