907話 伝わるから楽しい

それにしても、甲野先生はお疲れのようである。随想録には、忙しすぎることの嘆きが随所に書き込まれている。というより、嘆きの間に「誰々に会って嬉しかった」とか「先月とは○○の技のレベルがとうてい違う」というような本来書こうと思われていることが点在している感じである。


相手が何をされたのかが分からないのに、崩されたりひっくり返されたりするから古武術的な技なのであって、何をされたのかが分かったのでは技としては役に立たない。そういうレベルであるから注目を集め、しかしそういうレベルの「しろもの」だから出来る人がほとんどいない。


講習会や講演会の依頼も引きも切らないようであるが、もともと聞いてすぐできるようなことを練習されているわけではないから(中には視点を変えるだけで誰でもできるようなことも紹介されているようであるが)手応えのある聞き手なり習い手がいて、そこに「伝わった!」という喜びを味わえる機会もとっても少なそうである。


古武術の術理なんてのは、本来拡大再生産に向かないと思われる。ビリーザブートキャンプのように、リビングでテレビに向かって練習できるようなものではない。

手作りの手渡しのみ可能。しかも渡される人のレベルが低いと手渡せないという世界である。(と想像される)

したがって、甲野先生の語りをリライトする場合も、ライターが「誰にでもわかりやすいような話」としてリライトしてしまうと、それは甲野先生の語ろうとしていることとはかけ離れ、甲野先生は校正を前にますますストレスを抱え込まれているようなのである。


小説やら文学、映画や音楽であれば、もともと拡大再生産のためのものであるから、売れればそれが一つの目標達成ということになろう。


繰り返すが、手作りを手間暇かけて伝える(しかし、伝わらない事の方が多い)というたぐいのものであるのに、出版社やらマスコミやらは、前記した「拡大再生産可能な商品」と同様に扱おうとしている。そういった方々は売れるということがゴールであって、「確かに伝わった」かどうか、というのはさほど深刻に問題にはされないであろう。


そういうスタンスの違いが、ますます甲野先生に「嘆きのブログ」に拍車をかけているように感じる。


注目される、売れる、流行るというところには喜びはなく、伝わりつつある、伝わった、手渡せた、そして相手の方が変わった、というサイクルの中に「やりがい」「喜び」があることを、再認識した筆者であった。