913話 今日のお稽古

正座している人の首のあたりに腕を引っかけ、崩すという稽古をする。


しかし、この表現は実は適切ではなくって、引っかけるという物理的接触と力学的転倒ではないものを稽古しようとしている。


感覚とすれば「接触した皮膚を、相手の皮膚に対して『どないでっか?』と問いかけているがかのような質」にすると、相手の首の皮膚は、三年B組の生徒が金八先生に「ううう、先生!」と胸に飛び込んで泣き崩れるがごとく、思いのたけを吐き出すような状況になり、ホンネがこちらの腕に流れ込んでくるので、そのまま受け入れて一体化すると、勝手に崩れて転がって笑い出す、という感じである。


うう、書いて後悔。何のことかさっぱりわかんないね。


まあ、人によって表現は異なるだろうけれども、そういう状態になると、そういう結果が現れるのであるが、倒してやろうとか、うまくやってやろうとか、やっぱりちょっとは物理的に崩さなきゃとか、そういう「思い」や「意図」が混じると、まったくうまくいかない。


I崎@社会学さんから、


「果たしてこれは、実際の組み技系格闘技の試合の中で、使えるものであるやなしや」


との質問がある。


実感を正直にお答えするなら、今の私にはできませんが、将来的な可能性は感じますね、ということになる。


しかし、そういう競技の選手が、本気になって身につけにかかるとしたら、いけるんじゃないかな、どうかな、ということが頭に浮かぶ。


しかし、一つおそらくこれは間違いないだろうな、と思い当たったのは「勝利(一本)の瞬間にガッツポーズが出てしまうような心理、身体状況では無理だろう」ということである。


ということで、さっそく実験。今朝の稽古に参加のみなさまには、ことごとくかかる技であるが、「これに勝ったら金メダル」という想定をしたとたんに、全く使えなくなった。一体化できないのである。


そりゃそうである。「これに勝ったら金メダル」という想定は、勝者と敗者に分かれてこそ成立するのである。相手と一体化することで、相手に勝とうというのは、根本的に両立しないのである。


はなから、勝者も敗者も生まれないような状況になった時にのみ、「現れる現象」なのである。ゆえに絶対に「ガッツポーズ」や「勝利の雄叫び」とは両立しないのである。


言うまでもないが、筆者は決して品行方正・謹厳実直・人格高潔で慈愛に満ちた、善意の人などではない。この世の中で誰よりも自分がかわいく、この世の誰よりも自分に甘く、物事はことごとく自分に都合良く解釈し、嫌いな人には整体もしたくないし、教えたくもないというわがまま中年親父である。わがまま勝手極悪非道非行中年である。


ゆえに、「それ」が現れる技ができるからといって、筆者が人格者であり、人間的に優れているということはまったく意味しないということは明らかである。しかしながら、「それ」が現れる瞬間だけは、そういった「自我意識とともにある悪しきもの」が消え去っているのは確かである。


そういうものをかいま見ることができるだけでも、幸せなのである。