918話 私はMではない

最近やたらと幸せである。本を読んで面白く、映画を観て楽しく、風に吹かれて心地よく、布団に包まれて暖かく、板張りの床で寝ても柔らかく、目覚めて軽やかですっきりしている。家族といて楽しく、道場で仕事をして充実している。何かをしていて楽しく、何もしないでも幸せである。


何かを達成したから嬉しいというのではない。もちろん、独立して仕事をしているのだから、仕事上の目標というのはあり、それは幸いクリアしているが、その目標をクリアした喜びというのは、前記した『何もないのに幸せ」というのに劣る。


現状に満足がいかず、幸せの実感が薄い時には、「成功」すればきっと幸せになるのだろうと思うのは当然だろう。何かを成し遂げた状態になければ、何かを成し遂げれば、幸福感が訪れそうに感じるだろうと思う。そこで成功セミナーに通ったり、成功本を読んだりして、目標を立て、成功しようとする。


最近の「やたら幸せ感覚」をずらずらっと眺めていて、どうもそういう図式には収まらない事に気づいた。人は知らない。これは筆者の体感のみの話であり、人様にはあてはまらないかもしれない。けど、いいのである。筆者は筆者の幸福感・満足感・充実感が大事なのである。自分にだけは通用しないで、万人が幸せになることを見つけるよりも、万人には通用しなくとも、自分ひとりに通用すれば用は足りるのである。


この「やたら幸せ感覚」を分析してみると、やり遂げたり、達成したり、人より上に行ったり、勝ったり、儲けたり、賞賛されてり、はまったくしていないのである。


それどころか、まったく逆であった。


ことごとく「一本取られている」のである。言いかえれば負けているのである。


最近であればBLONDIE の CALL MEに「参った」訳である。鳥久の料理に「降参」したのである。映画『バルトの楽園(がくえん)』の松江中佐(大佐だったかな)にも参ったのである。おとつい「バルト・・」と一緒に借りた「押尾コータロー」のギターにも、どうしようもなく降参である。4日前読み返した浅田次郎の「プリズンホテル」は、すでに4〜5回読んでいるにもかかわらず「完膚なきまで叩きのめされた」のである。


もちろん毎日内田老師のブログにも降参している。


負ける機会、参った度合い、降参した質がどうしようもないほど幸福なのであるから不思議なものである。その質が太刀打ちできないほど、幸せであり、ありがたいのである。よくぞこのような作品を世に出していただきましてと頭が下がるのである。


出来たから嬉しいのではないのである。とてもできないぜ、というものに触れるほど豊かな気持ちになるのである。


明日はどんなものにかなわないか、楽しみだなあ。