919話 よけろよ、と怒る前に

ホームの雑踏で、よけようとしない相手にぶつかりそうになることがある。もちろん、こちらはよけるからぶつかりはしない。


そういう現象を「身体感覚が劣化しているからだ」と論評することはできるが、じゃあどうすればいいか、という明快な説明が続くことはない。


ぶつかってくる若い衆は私の責任範囲ではないので、私は私の責任範囲である私のふるまいをどうするのかを考える。


こういう講習をすることがある。道場で二手に分かれて、バラバラに向かい合う。そして歩く。これはホームの雑踏を模したものである。一方は前をただ見る。しかし一方は耳を澄ませ、匂いをかぐという意識を持ってもらう。


これを交互に繰り返して、耳や鼻、聴覚や嗅覚をふるまいに参加させるとどう変わるかというと、遠い相手の存在感をリアルに感じて、3〜4メートル離れている時点で、もう「避けなきゃ」という感覚が生じる。実際に進路変更を始める人が多い。これは実験に参加した人は異口同音に感じることである。


「相手のいることをリアルに感じた」ということは、それまでは「相手のいることをリアルには感じていない」ということである。つまり「映像を見ている」ようにただ見ているということである。テレビの画面と同じなのである。


ホームを歩くその前から、テレビの画面が近づいてきたからといって、避ける必用はない。だってただの画像なんだから。


この実験は、別に若い世代だけにやってもらったわけではない。上は60代の方までされたテストである。ようするに老若男女、現代人は世の中をテレビのように見ている、ということである。目の前に変化しつつある状況があるのに、対処する回路が何も働いていないというのは極論すれば「生きていない」とは言えまいか。


リアルに感じれば感じるほど、感じた瞬間にはすでに進路変更していることに注目する。頭で考えて意志決定していたのでは遅いのである。情報が多く集まれば、それに応じて「より生存する可能性の高い方」へ「危険性の低い方へ」と体はすでに動いているのである。



耳というのは、振動を音声に変換する器官である。他の感覚器もそうであるが、元をたどれば触覚の分化したものということになるらしい。先ほどの耳と鼻を自分の日常に参加させるだけでも、いきなり「リアル」になるのである。皮膚感覚をそれに加えると、ますますリアルになる。


リアルになるということを感心しているレベルというのは、「生存する」ために必用な日常のふるまいというレベルから考えると、ずいぶんお粗末なのだけれど、それが現実だから、認めてそこから始めるしかあるまい。


ふだん、特に通勤・移動時には「自己チュー・ウォーキング」をやっている。これは皮膚感覚に繰り返しアプローチしていることになる。耳鼻を意識して歩くというのは、最近それに加えたことである。


昨日書いた「朝から晩までやたら幸せ感覚」というのは、この習慣と無関係ではあるまいと推察している。