933話 自意識は来賓席へどうぞ

すずなを連れて和歌山城へ。いつものようにあづまやで尺八のお稽古。


前よりもましにはなったが・・・。


意識的にやるよりも、無意識にまかせましょうなどと偉そうに人様には指導しているが、この指の硬さはなんだ。これは「意識的に練習している私」そのものではなか。


そこで「練習する私」を「演奏を聴く私」に切りかえ、演奏の方は指にまかせる。すると、かたくなに「この姿勢で」と「意識的にやることで無意識にそうなってしまっている(ややこしいね)癒着して呪縛にかかったこわばった体がゆるみほぐれ整い、上手くはなっていないが、楽にはなる。伸びやかさは出てくる。


体の視界が開けた気分である。色々と気づきはあるものの、身につくには至らないことばかりである。しかし、そのほんの少し身に付いたものの恩恵だけでも実に楽しくありがたい。


一生懸命やるということは、誰もが良いことと認知し、疑わないけれども、何か違和感を感じる今日この頃である。


一生懸命というのは「自我意識」「自意識」の全開状態である。しかし、その取り組みは体からすると「はた迷惑でしょうがないから、しばらく黙っててくれ」という感じがするのである。黙って見守って方向性だけ指示してくれたら後はこっちでやるから、という感じがするのである。


できうる限り「自意識」「自我意識」には、「最高顧問」もしくは「相談役」の称号を与え、来賓席に座って頂く、という取り組み方をやりたいと思う。


「我(われ)思う ゆえに我(われ)あり」


などと言う哲学の言葉がある。どういう文脈で使われたのかその原典を知らない。のでむちゃくちゃを言うが、これは訳し間違いではないかと思う。



「我(われ)思う ゆえに我(が)あり」

「ゆえに、しばらく思うのを止めて、感じ、ながめる方がお得です。(少なくともからだにとっては)」


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押尾コータローのCDを聞きながら、上記の文章を書く。


押尾さん、凄い。一つのギターを二本の腕て弾いているとはとうてい思えない。


どう聞いても、腕が4本もしくは、腕が3本で指が片手に12本ぐらいある生物が弾いているとしか思えない。


こういうレベルの仕事ができるようになりたい。