936話 『挫折と思いやりと連続殺人』2

さて、今回の作品であるが、要所要所で観客に二つのシチュエーションから一つを多数決で決めてもらって、そちらを演じるという趣向で、昨日は「役者いじめ」と表現したけれど、日曜日の昼の部、別の展開の一本を観て(正確には楽屋で聞いて)意見が変わった。


これは、役者にとても優しい作品である。(なんと前言撤回君子豹変)


確かに、作品中、次の展開の選択を迫られる場面は3回か4回あった。台本としては通常の倍のセリフを覚え稽古する必用があるし、話の展開では1時間半にも2時間半にもなるという。


この作品のストーリーそのものが、実力があるのにオーディションに落ちた女優の恨みが背景にあるのだけれど、それって確かに役者の立場にはついて回る。


主役と脇役、おいしい役とちょい役の『格差』は、どうしてもついて回る。それでは役者がかわいそうだと、5本の公演をそれぞれまんべんなくいい役があたるように毎回違う筋立てでやったとしたらどうだろう。


おそらくその「甘い設定」では、緊張感のない間延びしたものになり、たいした作品にならないことは必至である。


土曜日の夜の部を観て、面白い作品だと思った。もちろん、「その回に上演された作品」が面白かったのである。そして、その回に「上演されなかったストーリー」には別段未練はなかった。自分が観たその作品が面白かったので、それはそれで満足だったのである。


マルチストーリーという「売り?」は、だから観客に対しては引力は働かない。正直に言えば、いくつもの筋立てを用意すればするほど、一つのストーリーの完成度は落ちるから、かえって質の落ちた芝居になるのでは、などという思いがかすめたぐらいである。


しかし、違ったのである。これは役者の作品にかけるエネルギーを飛躍的に高める仕掛けであったのだ。


今回の作品は、役者に「チャンスは与える。だからその分、倍稽古して、倍セリフを覚えて、しっかり汗かいといとね。でもね、それが活かされるかどうかは偶然だから恨まないでね。うひひひひ」という丸尾氏の高笑いが聞こえる構成であったのだ。(しかし、倍の台本を書く丸尾氏は自分で自分の首も同時に絞めていたのである)


先日の「腰を入れる身体操作」について論じた時、「目の前のボールをラケットで打ちに行く通常の運動で見られるレベルと、腰が入って『全方位からの攻撃』に対応できるレベルで打つのとでは、目の前のボールに集中しているよりも、全方位に対応できる状態の方が、結果的に確実かつ的確に目の前のボールを打ち返せる」という意味のことを書いた。


あれとも似ている面があると思う。目の前のものだけでなく、「無い(かもしれない)もの」に対しても準備する方が、能力は引き出される。


筆者が観た土曜日の夜の部のラストでは山田将之さん演じる辰巳が熱演であった。しかし、日曜日の朝は、春住さんが涙の好演であった。(幸いにも春住さんのご両親はこの回を見に来ていた。)


日曜日の昼の部に見に来ていたフロントダッシュの園田さんは、土曜日のキムの熱演を聞いて楽しみにしていたらしいが、筆者が観た回ではキムは「登場しなかった」


楽屋にいてさえ存在感豊かなキムが登場できなかったのである。登場できた時のキムの爆発力は想像するだけで恐ろしい。


登場できなかった役者が登場できた時のエネルギーもそうであるが、今日はたまたま「おいしい役回り」が当たった役者とて、次回に回ってくるかどうかは分からないのである。一打席にかける水島新司の名作「あぶさん」のごとき精神状態を役者に強いる作品であった。


次もあると思って演じるのと、これが最後かもしれないと思って演じるのとでは気迫は明らかに違う。


そういえば、登場人物の名前が、 「卯」月ともみ とか「辰」巳マサユキという具合に全て十二支から一文字とっての配役である。ここに作者丸尾氏の「チャンスだけは公平に」の意図を感じる筆者であった。


土曜の夜の部を観て、日曜日の昼の部を楽屋の音声モニターで聞いた筆者は、日曜日夕方の部の前説の後、あさちゃんの待つ和歌山へと帰ったのであるが、その時点でとってもとっても「次のまだ観ぬ一回が観たい!」という気になっていたのである。


それでもって、「打ち上げも出たい!」という気持ち満々になっていたのである。


ということで、再演があったら、また前説行きますので、声かけてね丸尾さん。