944話 一徹子の部屋

大人の寺子屋は、すこぶる面白かった。


前にも書いたけれど、別に「対談」がしたい訳ではない。だって、ゲストに招いた(または今後お呼びしようと思っている方々)は、基本的に知り合いかまたは面識のある方々で、最低一度はお話を聞いている方で、ほとんどの方は、しょっちゅうお話を聞いている方である。


そしていつ聞いても、その話が面白くて、「自分だけで聞くのはもったいない」と感じさせる方々である。


筆者が興味を持つのは、表面に見える華々しい部分ではない。それを成り立たせている要素、裏側が大好きなのである。それは聞くほどなるほどと思うことであり、聞かなくては思い当たらないことであり、また筆者の専門分野とはまったく違う分野であっても、今の自分のあり方というものに、波紋を投げかけ、素敵な刺激を与えてくれのである。


話というのは、言いたいことがあって口から出るのではなく、聞き手が引き出すのである。


今回M本さんの話を聞こうと(あるいは宴会をしようと)お集まりになった方々は、結果から見ても最良の聞き手であった。何をもってそれを言うかというと、筆者が直接色々とお話を聞いたよりもさらに面白い4時間であったからである。


宴会の買い出しに出かけるまで二時間弱。お手洗いに立つ人の一人もなく(筆者が一回行ったか?)なんら退屈することなく、間延びすることなく、一気呵成に話が続いたのである。


通常の講演会などで二時間近い時間というのは、なかなか休憩なしで耐えうる時間ではない。また「講演会」となると色彩はやや硬さを帯び、「公式発表」に傾き、「まいちゃん、国連Lカップひっくり返し事件」などは盛り込めないであろう。


しかしながら、筆者が鬼丸さん、M本さんらとそば吉あたりで、ずるずるとそばをすすりながらする話の場合は、めちゃめちゃ面白いのではあるが、断片的であり、今回のように時系列に裏話をお聞きするという展開にはなりにくい。


この「寺子屋」の「非公式的立ち位置」というか、こたつに一緒に足を突っ込むにはあふれる人数、その昔学生時代に6畳一間にぎゅうぎゅうに入って飲み会をやったあたりの人数というものの持つ「ちょうどいい加減」というものが、適度に公式で、適度に「裏」ななんとも美味しい話を引き出す舞台設定であった。


ところで、この会合を「大人の寺子屋」と言い、当日は「徹子の部屋のように筆者がゲストよりもさんざんしゃべりながらゲストの話を聞き出すような会です」と宣言して始めたのであるが、今後、この会のニックネームを「一徹子(いってつこ)の部屋」と称したいと思う。


筆者が聞きたいのはは成功談ではない。「あることがらを続けてきた人」が、その道中に見たもの聞いたもの、身につけたものである。ある事柄を「一徹」に続けた人の話すことは面白い。


しかし、世のみなさまが、上司の無能に泣き、部下のわがままに手を焼き、同僚の冷たい視線に身をこわばらせ、またはそれ以外の辛い、せちがらい人間関係に悩む方々があまたおられる中で、嫌悪感を感じる方が一人もおられない会員のみなさんと、「この人いいなあ」「この人面白いなあ」「魅力的だなあ」という方々に囲まれている筆者は、実に幸せものである。

感謝あるのみである。