974話 水飴化あれこれ 2

統一体。ヨガに入門してはじめてこの言葉を聞いた時は頭で理解しようとしてそれがどういうことかなかなか分らなかった。

頭で理解しようとして分らないと感じるのは、つくづく正しい反応だと思う。
そうそう。言葉だけがあって、どなたも体現されていなかった。


本当は(体で)全く理解できてないのに、頭の理屈の世界で分った気になったり「分った者」として自分を回りに登録したがることほど遠回りな道はないとも思う。統一体とはこういこうことだったのねーーー!とヨガ入門して21年目にしてはじめて分った!と気づかされた次第です。たぶん、まだまだ上のレベルもあるように思えます。



例えば技で二人組で座って向かい合った相手に手首を握られて倒す技がある。(これだけは合気道に入門する前から知っていた)


津田先生の現在の技法では、自分の身体を水飴化するのと同時に最初から相手と自分の境界線をないものとして、つまり「もともと一体」という前提で入っていかれる。


すると相手の身体のどこが『実』でどこが『虚』か?という「探し」をする必要も手間もなく、相手(私)は崩れてしまう。(勿論、誰にでも簡単にできる世界(技)ではなく、相当、身体がチューニングされていないと難しいのだと想像します。)

津田先生曰く

敵意が皆無の時にのみ、発現する武術の技がある。

の世界だそうである。

一応、理論的に?説明すると水飴津田先生に崩された私の身体は緩んでいるのだけど決してバラけているのではなく統一体で理想的な身体の状況になっている。だからその後にぐるぐる両足首を掴まれてまわされてもこちらも相手も全然しんどくない、全然楽しいのだ。

(K藤さんにとっては、これを初めて体験した時はジェットコースターに乗っている楽しさと軽さだったらしい)
重箱の隅をつつくなら「ジェットコースターに乗った時よりも楽しい」でした。



それから一番特筆すべきは、(962話 みんな友達 - からだ・心 右往左往でも書いておられたが)身体が水飴化すると、例えば津田先生は電車の中で居合わせたみんなが身内に見えるらしい。

「あの人もこの人もみんなええ人でんな〜〜」という気持ちがしみじみと湧いて幸せな気持ちになられるそうである。
これも嘘ではないが、正確に言うと「極端に体の水飴化に成功した日の帰りがけにそうなった」ということである。いつもいつもその状態などでは決してない。


筆者の中では武術と整体は表裏一体、双方向、必要不可欠である。武術で使えるレベルのものが身に付いて、整体だってものになる、の世界である。


それぞれ、というか双方同時というか、その上達を目指す日々である。しかしながら、まとまった稽古を取る時間などはなかなかない。定期的に習いに行く時間などはもちろんない。そうすると、日常生活の中で稽古になるようなことがあれば非常に望ましい。


昨今お勧めの自然体チューニングの「自己チュー」は、日常の稽古化にとっても愛称がいいので心からお勧めする次第である。で、これは自分で自分を整える方法。


これはこれでいいのだけれども、ではそれで培った心身の状態が「ひとりよがり」ではないかどうか、という検証が必用で、そのために武術の稽古はきわめて役立つ。質が変わっていなければ、相手に技はうんともすんともかからない。


この場合の技というのは、馬力・体力・筋力・物理的・力学的なものではなく、気力・引力・感応・共鳴・共振の技化したものである。ゆえに、実は「やる前から成功するかどうか」というのはなんとなく分かるのである。


ゆえに水飴化した自分が、天下茶屋の駅で「誰を観ても友達に見え、いい人に見えた」というのは、『気力・引力・感応・共鳴・共振』をベースにした技がいつでも発進可能という状態であったということで、駅を歩いていながら武術の稽古になってしまった、というとっても素敵な時間であったのである。


日常を稽古にする、日常をトレーニングにする、ということを考えると色々な方法が考えられる。ジョギングで通勤したり、階段は一段とばしで駆け上がったり。学生のころ一時期「かかとをつかないで一日中過ごす」という足のトレーニングをしたこともある(長い徒歩旅行の前だけでしたけど)


抗争中の暴力団の「狙われる位置にいる組員」のように、全身の神経を張りつめて「どこから攻撃されても察知できるように勘を磨く」ということだってある。


武術的な世界に関して、空手の宇城憲治先生は「スポーツのトレーニングは休むと戻るが、武術の稽古で得たものは、一度できるようになったら後戻りしない。一度自転車に乗れるようになったら、しばらく乗らなくても、乗れる。そういうものが武術である」という意味のことを述べられている。


筆者が「よしとする」のはそういう質のものである。


・・・・・・続きは明日・・・・・