975話 水飴化あれこれ 3

たとえば筋トレ。トレーニングを休むと筋肉、筋力ともたちまち落ちてくるという。



これに関して筆者は、これは身体が本質的に「そんなに筋肉いらないんですけど・・・」と言っているように見える。


もしくは「たっぷりと筋肉つけてもらっているんですけど、使い道がないんですわ」と言っているようにも見える。


たとえばバッティングというものを考えた時に、あれはバットの一点とボールの一点を、バットの最高速度に達した時点で接触させるという非常に高度な操作であると筆者は思う。


バットが数ミリ上にぶれてもぼてぼてのゴロになり、下にずれるとイージーフライになる。0.何秒か0.0何秒か遅れても早くても、押し込まれたり詰まったりする。


力強い行為のように見えて、ものすごく繊細なことをされているのではなかろうか、と草野球経験しかない筆者ではあるが、そう思う。


そこになんとなく腕が太くて筋力が強い方が飛びそう、という程度のことで雑な筋トレをした場合に、その必用な繊細さというのはどこへ行ってしまうのであろう。


書道の大家が筋トレによって字が上手くなったというケースを聞かない。料理の名人が筋トレによって包丁さばきが良くなったという話も聞かない。


そのような方法があるのなら(世の中広いので、そういう筋トレを研究している方もおられてもおかしくない)将来ぜひ研究してみたい。しかし今は知らない。


だから、たとえば、野球でバットを振る時に必用な力というのは、バットを振ることで得るのが一番ロスがなさそうに思える。


なんというか「後から加えるもの」という体へのアプローチ方法だと、休むとすぐにその「身につけたはずのもの」は無くなっていく。


体から堀出したもの、研ぎ出したもの、はなかなかそうはならない。そういったものは、表出した後、体が「そういうふうに身を使った方が楽だしロスがないし、無理がない」と認知してしまうと、身体はどんどんとそちらに軸足を変える。すると、極端に言えば練習する必用がない。日常がそのまま本番となり、練習となるからである。


と言う具合に考えると、「フレンドリーな水飴状態」となって「見る人見る人全てがいい人に見える」ような武術トレーニングというものの優位性がはっきりしてくる。


気を張りつめきって、周囲にいる敵の存在を全神経で探してるトレーニングと、自らの身体をきわめて有機的な柔らかい状態にして、周囲の人に「その状態との共鳴」を探すことに励むのと長い目で見た場合(短期間でもそうだけど)どちらが心身にかけるストレスを減少させ、実際に武術が必用になるような危険な状態を避けるであろうか。


張りつめきることで、敵の存在を探すということは、見方を変えれば「敵を求めている」ということになる。求めれば与えられるのが潜在意識の法則である。ということは、敵の攻撃を避けようとして敵を作っているし、心身のストレスを増大させて、敵にやられないかわりに心身を病むという可能性を高めていることになる。自分で自分にやられては本末転倒である。


かくして、今日も水飴化に励む筆者である。