986話 極意は「右から左に受け流す?」

5人ならんで正座してふんばってもらっている人を、横から押して将棋倒しにする(ってもちろん力任せではない)技や、6人ならんで手をつないでいる人を、軽く引っ張って次々に崩していく、というようなことができるようになりつつある。


6人と思うと、一人二人しか動かないのが、6人まとめて一人の人として扱ってやると、比較的成功する。しかし、うまくいかないこともけっこうある。


その時、中にいる人は、横から流れてくる波に乗り、飲まれるような状態になっていて、意識していないのだけれど、結果的に隣の人に力を伝えている役回りを演じていることになる。


そうか、私が力の始発点だと思うから、自意識が働いて力みや作為が働いて、失敗するんだと目を付けた。


ということで、私より向こうに、私に技をかけている人がいて、私はなすすべもなく隣の人に伝えざるを得ない状況だ、としてやってみた。・・・ら。ことごとく成功するようになった。


やはりじゃまなのは「私」の「意識」というわけである。私がやるのではなく、流れの一部になれば良かったのである。


ならば、というので「合気上げ」的な動き。


「私が相手を崩そう」、「私の手首を押さえている相手の腕を上げてやれ、崩してやれ」と思っている限りは、ただの力のぶつかり合いである。


こちらの腕と、相手の腕は、V字型を描いている。これは一つの波の波形の断片だと見える。その二人の腕が描く波の波形が、自分の背中側から流れてきて、体の通って、腕のV字に流れて、かつ相手の後に流れていく、という「波形」に意識を合わせると、みんなどんどん吹っ飛ぶ。しかも大笑いしながら。


私がやる!では技にならない。私から始める、でも技にならない。私の中を通り過ぎていくものが仕事をする。


これって、とっても大事なことではないか、と感じている本日である。


「私が」という意識がじゃまだとは思っていた。しかし、無意識という条件のもとには「私」がやると思っていたが、どうも違うらしい。


私がやろうとすると相手には届かない。私の後から来て、私を通り過ぎるものこそは、予想以上の大きな仕事をする。


山上君が、ず〜っと前に書いていたことが、体に現れましたよ。