993話 清め

さらに「修業」という言葉にも抵抗がある。やはりこれは「道具を使った感覚トレーニング」もしくは「ほうきを使った素振り」という方がぴったりくるレベルのお話である。


筆者のそれこそ「ヨガ修業時代」には「心得=心構えを文章化したもの」を唱和の後、清掃して心を磨く、というようなことが日常に組み込まれていたこともあった。


今は、その方式に「唱和の後、力みかえって実行」というやり方には違和感がある。話はずれるかも知れないが「お掃除をして運を良くしよう」なんて本も、いまいち読む気にならない。


掃除はした方がいいと思う。でも「修業だ〜!」と大上段に振りかぶってするのはいささか違うような気がする。


私が「掃除される側」だとする。


「よ〜し、このめんどくさい、汚い、やりたくない掃除をやって、弱い心にうち勝ち、感謝心を養い、運気を身につけて成功するぞ〜」


なんてまなじりを決したやつが来たら、「うっとうしい、あっちいけ」と思う。


そんなにやりたくないことを、わざわざ俺でやるな!と思う。


「そうじの動きで、なんとも気持ちよくなるもんで、ちょっと掃かせてもらいまっさ」というアプローチなら「あ、そうなの、いえいえ、こっちもまあ気持ち悪いもんでもないしっていうか、気持ちいいし、そう、すんまへんなあ」ぐらいには許してもらえると思う。


もちろん、たとえば神社仏閣聖地だとか、その人が「ここが好き、大事にしたい、この『場』を整えたい 清めたい、祓いたい」と真摯にその『場』に向き合ってこられる場合は、さらに違いはある。


「そちらがそのように真摯に向き合われるとおっしゃるのであれば」と、思わず居住まいを正すような気がする。


そう考えると、聖地や神なんてものも、もともとのそういう力のようなものはあったとしても、それを大事にする人の心が合わさって「神」でありつづけ、聖地であり続けるというようなメカニズムが働いているような気がする。


そういう心持ちでもって、「偉大なるものに真摯に向き合って」というような方なら「修業」という言葉を使われても合うような気がする。


以上の考察によって、筆者は「筆者の奥さんはとってもいい奥さんである」と扱い続けることによって、逆鱗に触れ、罵詈雑言を投げつけられ、怒られ、叱られる事態・状況を回避できるのである、という真理にたどり着くことが出来た。