にゅるにゅる水圧式身体運動仮説

今日はお休みだが、昼前から大阪に出ていく。S川さんと「人体の不思議展」を見に行くためである。


S川さんは、昨年アメリカに「解剖実習セミナー」を受けに行った。


そこで、何体もの解剖を実際に行ってきたという。


そこで見聞きしたことを、【人体の不思議展】の「樹脂で固めた本物の死体」を前に開陳していただこう、というまことに贅沢な「お一人様セミナー」である。


S川さん曰く、筋肉というのは、図解や標本では「お肉」としてのイメージがあるけれども、実際に冷凍保存され解凍して解剖に供せられた人体における筋肉は、筋膜にくるまれて、そのなかには「たっぷりと」水けが含まれて、とてもむにゅむにゅしている、という。じゅるじゅるのむにゅむにゅの、もにょもにょのぶわぶわなのが『人体における筋肉だ』というのである。


会場の隅に説明書きがあって、そこには「解剖したら、標本化するには余分な脂肪や水分や体液があるから、それをすっかり取り去って・・・・」という、人体がこの「標本化」するまでの行程が説明されていた。


あらゆる筋肉、骨格、神経、血管をむき出しにして見せている、すばらしい解剖と標本化の技術であるけれど、結果的に、そのすばらしい技術が「人体のなんたるか」を見誤らせているんだね、という結論の今回の「一人贅沢セミナー」であった。


「余分な脂肪や水分や体液」は「筋肉や骨格をむき出しに標本にする」には「余分」なのであって、人体にとって「余分だ」というわけではない。しかし、医学生やらスポーツ関係者が勉強する図解やら標本やら模型は、いつもその「余分な脂肪や水分や体液」を取り去った後のものである。


『「たっぷりと」水けが含まれて、とてもむにゅむにゅしている、という。じゅるじゅるのむにゅむにゅの、もにょもにょのぶわぶわ』な骨膜に包まれた筋肉や筋肉群が、ダイナミックに皮膚の下をぬたくるように蠢き(うごめき)、生物のように伸び縮みし、滑り、ふくらみ、平べったくなり、という様を目の当たりにしたならば、「取りあえず筋肉をしっかり鍛えましょう」という単純な図式に「え?ほんとにそれでいいの」という疑問がでて当然だろうと思われる。


男性の読者諸君、よ〜く考えてみよう。(女性の読者のみなさまはこっそりと思い出してみよう)


男性の男性足るゆえんとして正中線下部、そけい部を左右からあがり、またぐらに蛇口のようについているものがある。


あの「もの」は、不使用時には、ずいぶんとこぢんまりとしている。骨もない。筋肉もない。海綿体という「吸い込みのいい」組織で作られているらしい。


一皮というかふた皮むけば、おそらく『じゅるじゅるのむにゅむにゅの、もにょもにょのぶわぶわ』であろう。


しかし、一旦火急の「その時」を迎えたならば、たちまちにして、骨も筋肉もないにもかかわらず「筋肉隆々」にそびえ立つではないか。(立たないときは、バイ○グラなどの薬物の力を借りてでもそびえてね、と努力する御仁も多いと聞くが)


なるほど、骨格という柱を、筋肉というバネがひっぱるという「当たり前に思っている仕組み」が、ここにはない。が、十分「それを果たし終えるまで、それに耐えうる強度を保つ」という実績を、大人のみなさんはそれぞれ経験されているはずだ。


人体その他の部分も、この「水圧の変化を使う」というシステムが、サブ的に使われていたってまったくおかしくない。もしかしたら、「水圧の変化、ぬるぬる方式」がメインで、バネの伸び縮み方式がサブかも知れない、とさえ思う。バネ式は部分的な緊張に陥りやすく、水圧方式が全身の協調性という意味では優れていると感じるからだ。



さて、帰宅する途中、今日は珍しく「疲れてこわばっている」という感じがあった。


今日は一人も整体していないからだ。整体するとき、体中をゆるめないと相手を感じることはできない。一体化しない。今日は「樹脂で固まった死体」を、対立的に分析的に緊張をともなってながめていたんだということに気づく。


まいちんのスイミングのお迎えがあったので、車と一体化してお迎えに行くことにする。やはり、「車を運転している」という意識では、こわばりが多数生まれる。車の一部になり、車のやろうとしていることの一部になるほど、氣は滞らず、こわばりは激減する。


私がやりたいことに「私」はじゃまなのである。


私がやりたいことは、私が無くなるほどやれるのである。

【以上 1008話】