1010話 出力より入力

以前に「勉強好きな人の悪口」を書いた。


高額のセミナーにせっせと顔を出し、やり方ばっかり習って、いったいいつ本番をやるの?という攻撃である。


生きているということは、うつろうことである。ゆえに、筆者はぬけぬけと逆のことを言うのである。


「出力よりも入力である」。


といっても、やはり「さっさと本番に立ちなはれということは変わらない。言っているのは「練習時の構え」のことである。


練習というのは、できないことをやることである。できないことをやるのに、「どうやればいいか」と「意識」(自意識・自我意識)に尋ねたって、頼まれた自意識だって困るだろう。だって「やったことないんだから、知らないんだもんん」


筆者の「自己流・おじさんのカラオケ的楽しみ方」な尺八であるが、現在の課題曲は「柴崎コウ」の「kissして」である。


出だしの「チュッチュッチュルルル〜」の部分だけをとっても、過半数以上が半音である。ピアノの鍵盤のように黒い半音の鍵盤がついていない尺八の半音は、穴を半分ふさいだり、首の角度を下げたりして対応する。


尺八の「首振り三年」というのは、ビブラードの首振りではなく、半音を含めた音階を正しくだすのに三年はかかりまんねんな、ということらしい。


先週の段階では、この曲は練習すると指がこわばって疲れることはなはだしかった。今週は軽快である。


筆者が練習するときは、原曲を少し音量を下げてヘッドフォンで聴きながら吹く。


今週は「聴く」に徹して、演奏は「指におまかせ」である。疲れない。一生懸命練習するよりもよっぽど上手に演奏する。ちょっと意識が混じるととたんに硬くなる。


さらに、最近は「整体」が「乗っている」ので、全身のチューニングとともに指の手入れに怠りがない。


だいたい、本番というのは「上がる」ものである。上がる行為を類別してみると「出力行為」だということが分かる。人前で話す、歌う、演奏する、発表する。


入力行為で上がるということはない。だったら、練習時の質と量を徹底的にレベルを上げていけば、本番でも「入力しながら出力する」ことができるようになるではないか。


しっかり聴いたり、味わったりしながら


「あ〜、だめ。ドキドキする」


ということはない。


男女の営み的行為で


♪「あ〜、だめ。ドキドキする」


ということがあるが、この場合の「本番」というのは、ここでいう「本番」とは意味が違うので除外する。


くり返すが、自我意識が「進んでいこう」とするとろくなできにならない。進むよりも「引っ張ってもらった」方が楽で正しい方向へ向かう。


では何に引っ張ってもらうかというと「入力した情報の質と量」である。


質のいい情報をたっぷりと入れるほど、身体は「どうしたらいいのか」の判断が的確になる。


尺八や整体であれば、「身体の氣チューニング」や「指のお手入れ」などがそれに当たる。


現在進行中の「親父ドラゴン桜」も、そういう発想でアプローチしている。入力の質と量があがるようにする、というトレーニングである。そうすると【受験勉強】も「解き方」の問題ではなく「身体の問題」になる。


英語が「苦手」な長男であるが、「秘策」と「秘密のトレーニング」を伝授したのち、4〜5日後には、「風呂でハリーポッターの原書を6ページ読んだ。だいたい意味わかったで」とのことである。


目が疲れ、指がこわばり、首が硬くなり、背中が張るような練習はすべて間違いである。(勉強もね)


目の疲れがすっきりと取れ、指はしなやか、首はくにゃくにゃで凛と伸び、背中はおおらかになるような練習こそが能力を発揮させる。


今、この原稿を特急サザン指定席」で書いている。


画面に集中すると、悪しき方向に行き、原稿がはかどらない。画面を目に映しながら、窓の外の景色が視野に入るようにすると、指はとたんに軽快にキーボードの上で踊る。はかどる。目も疲れない。


♪チュッチュッ チュルルル〜 ルッチュ


楽しい。