1012話 ひ、み、つ

さて一昨日以来の「短期間で一気に5倍10倍に読書速度が上がって、理解度は落ちず、集中力は強化される速読のやり方」や「速読と視力回復の双方に成果をもたらす気づき」の内容など、肝心なところは書かない筆者であった。


なぜか?


正直に告白すると、それは筆者が「いぢわる」だからであるが、粉飾偽装が最近のトレンディであることを鑑み、それなりの「何か深い意味がありそうな」体裁をとるならば、それは筆者の使命感と愛情である。


「そこんとこ、かいつまんで簡単に教えて」というニーズに応えることは簡単であるが(めんどくさいけど)、そうやると聞くだけに終わって誰もやらない。


読んで納得すれば、「知りたかった」という要求が満足するのでやらない。読んで納得いかなければ、「納得いかない!」「そんなことでできるわけがない」と非難される。(筆者は人を非難するのは好きだが、自分が非難されるのは嫌いだ)


ということは、筆者にいいことは何もないではないか。受け手にとっても、身につければもしかしたら人生を変えるかもしれないものとの出会いを、出会いだけで終わらせてしまうことになる。


筆者の能力やスキルや見識知識またモチベーションや意欲・気力を上げるための『引力』は、習う側・読み手・聞き手の「意欲・好奇心・真剣さ・ニーズ」である。


「自我意識」の「知識欲」「知的好奇心」というのは、実にレベルが低い。「知りたい」に答えることは、筆者の『モチベーションや意欲・気力』には火を点けない。


「やりたい!何としてもできるようになりたい!」は、火を点ける。


筆者の社会的な使命を考えるなら、道場の役割は「在籍者」を増やすことではない。卒業生を増やすことである。願わくば、新しい指導者がどんどん生まれて巣立っていくことである。


そうやって「今生きている人がよりイキイキと甦っていくこと」に貢献でき、願わくば「次世代に残す値打ちのあるもの創り上げて次世代に残す」ということではないかと思う。


偉そうに書いているが、筆者の身につけつつあるものにオリジナルなんてものはない。どれこもれも「先人の残されたものの端っこ末端末尾お尻の方にたどり着いた」レベルのものである。


先人なくして、今の「し〜あわせ!」はない。


そして、それらのものを少しでもまともに身につけようとするならば、次世代または回りの方々に手渡していくことが最も効率的である。そして、その流れの向こうにいる方々が、どんどん発酵していくことである。


「発酵」とは「やらずにはおられない」状態に持ち込むことである。


「やらずにはおられない状態」とは「すっきりわかった」状態ではない。「わかったようだけど分からない。分からないようだけど、なんか『これだ』っていう気がする。やれるはずなのに出来ない。でもやりたい、できるようになりたい、わお〜ん」という状態になることである。


以前は講座で、「どこの先生が教えるよりもわかりやすくできるようにしよう」と意識してやっていた。


最近は、「やり方は教えるけれど、後は自分でやらないとできまへんで」に変えつつある。見本を見せて、あとはご自分でやんなはれ、に変えつつある。(まだまだ親切すぎる気はする)


すると、整体教室では、休憩時間にほとんど誰も休憩しないようになった。休憩しているのは筆者だけで、部屋に戻るとみんな稽古している。意見交換している。


ゆえに、このブログでも「手がかり」と「結果」だけを書いては、ネタをばらさずに大騒ぎしているのがいいように思う。


「知っただけのこと」を増やすことは、まったく自分にプラスにならない。そんなものは次世代へとつながらない。あなたの代で途切れる。できるようになったことだけが、次世代に残る可能性を含む。


今は常識になっていることで、次世代に残して笑われそうなことは、今のうちにできるだけ無くさなければならないのである。(って書きながら自分で「そうなのか」と感心している筆者であった)


ゆえに気にくわない分野や方法の悪口を書き、じゃあどうするねん、というネタはばらさない筆者であった。これこそが愛情と使命感である。