1013話 身体の中の『冤罪』事件

視力が回復しつつある、ということに関しての続報である。


「その目の使い方」をしばらくしていると、「ふっとピントが合う瞬間」が来る。そうしたら、そのピントの合った目で、前は見えなかった大きさの字の電車の中の釣り広告や地下鉄の「出口や乗り場案内表示」を見る。しっかり観る。おもいっきり観る。見えないぐらい遠くの小さい文字を観る。


と、調子がいいときは、そこからさらにぐぐっと見えてくる。


今までの「ぼやけかけた」映像が「くっきりはっきり ワイド画面の液晶ハイビジョン」になったら、秒数を(正確な一秒かどうかは適当だけど)頭の中でカウントする。


この「くっきりはっきり ワイド画面 ハイビジョン」で見える時間をできるだけ伸ばしてやろう、という作戦を実行中である。


10秒、20秒程度で「ぼやける」こともあるが、2分を超えて「はっきり くっきり (^-^)」ということもあった。


筆者の体感と、それにしっくりくる言葉を探すなら


「こうやって目を鍛えている」


というのでは合わない。


「こちらの方がちゃんとした目の使い方で、ふだんはまともにものを見ていない」


というふうに感じる。だから


「こうやってまともに見る時間を延ばしていくと、そちらの方が目にとっては『自然』なので、どこかの時点で『一気にシーソーのふれが逆転して』、自然にはっきり見えている時間の方が当たり前になる」


という感じに思えているし、期待している。


「目を使いすぎて視力が落ちる」という言葉に違和感がない方が多かろう。


でもよ〜く考えてみよう。普通は「数多くくり返して上達」を図るものではないか。しっかり使うなら視力がアップしてもおかしくはないではないか。その方が自然ではないか。


重いものを持つ仕事の人は、腕力や足腰が強くなる。飛脚は走るのが速くなり、スタミナがつく。


当たり前に考えれば、使うほど能力が上がってしかるべきではないか。腕ならば重たいものを持っていない時は休んでいるが、目は起きている間中使っている。つまり「使いすぎという」という言葉を目に対して使うのはおかしいのではないか。


目を使いすぎていると言っていい人は、23時間ぐらい起き続けている人であろう。7時間〜8時間寝ている人は、他の人に比べて「使いすぎ」ということはあり得ない。(はずだ)


しかし、本来丈夫になるはずの「重いものを持つ」仕事の人でも、雑な身体の使い方や無理な身体の使い方をすれば、痛めることはある。


ということは「目を使いすぎている」のではなくて「不自然な使い方や無理な使い方を目に強いている」ということの方が実態に近いのではないかと思う。


「目の疲労感」というのは、目の使いすぎではなくて「その使い方をやめてくれ」という目からのメッセージではないだろうか。


「視力低下」というのは、「そんなにちゃんと観てくれないんだったら、こっちにだって考えがあるわよ。そちらの観ようとする気のレベルに合わせちゃうからね」という「返答」だと思うのだ。


なんてことを思うのは、前記したように電車内やホームや通路などで、繰り返し「はっきりくっきり思いっきり『観る』練習」を二日ほど続けたら、「肩甲骨内縁上の内側の角」という「整体で目の急所」とされているところの「こわばり」が見事に激減したからである。


ふだんの3倍4倍「目に集中して」使ったのである。目の使いすぎが視力を低下させるものであれば、それだけ集中したら、こわばりまくってもおかしくないではないか。


ところが結果は逆なのである。見えるように集注するほど、肩や首はそのこわばりをいきなり消してしまうのである。


目が疲れたとき「目を使い過ぎちゃった」と言う人には、視力回復の可能性は逃げていく。「使い方間違えちゃった。ごめん」と言う人には、視力回復の可能性がアップする。


視力が低いことを「目が悪い」と言うのもおかしい。


使い方の問題だとととらえるならば、「目は悪くない、あんたが悪い」ということになる。


被害者を犯罪者扱いしてはなるまい。


加害者は、その自覚を持つべきである。