1019話 探偵ナイトスクープは教育番組だ 2

この両者を分けるのは「無自覚」の反対、「自覚力」である。


頭は自分の動作に注文をつけない。修正しようとしない。身体のやることに口を出さない。まかせる。信頼してまかせる、ということである。


そのかわりに「今何をしているのか、そしてまさに『今』身体は何を感じているのか」ということはきっちりと感じ取らなければならない。


上達の早い遅いの差は、この「自覚力」の差であるというのが今日の筆者の最有力仮説である。


ここに「感覚の鋭敏さの優劣」というものが入ってくるのであろう。


今自分がやっていることを「見る目」があるところまでは身体はパフォーマンスを上げてくる。自分の動き、運動、動作にたいする「目利き」にならなければならない。


身体の動きをもって

「いい仕事してますね〜」

と言えるだけのものを持たなければならない。


そのためには、まずは「優良な情報を大量に感じ取る」ということを試みるべきであろう。


これは、よく考えれば当たり前である。たとえば、さっさと歩けるのは、目が見えているからである。目を閉じたとたんに、『視覚情報』はゼロとなり、とたんに一歩も歩けなくなる。


どう動いたらいいか、というのを「身体に判断してもらう」ためには、情報は少ないよりも多い方がいいに決まっている。


見方を変えれば、それら情報はいついかなる時もすでに入力はされている。しかし、それを認知できていないだけ、とも言える。認知できた情報が多いほど、パフォーマンスは向上する。

もちろん、訓練次第で入力情報の量を増大させることもできるとも思う。

しかし、まずは自分がどう感じているか、何を感じているか、どう動いているかなどを認識することに意識は使うべきであろう。


「わたしゃ、こうしたいんよ」


という自我意識がのさばる分、感覚認知の「作業メモリー」は圧迫され、狭くなるであろう。


以上の考察をこころみ、あらためて『探偵ナイトスクープ』といういうのは、なんと偉大な番組なのであろうと思う。


何事も鵜呑みにせず、いちいち確かめること。これは科学の鉄則である。研究者の鉄則である。

探偵ナイトスクープとは、何と科学的な番組なのであろう。


というようなことを考え、こころみ久々に「バッティングセンター」へ出かけた筆者であった。

以上の仮説が的を得ており、それにもとづくトレーニングが功を奏しておれば、いくぶんかはましになっている。ちなみに、今までは「統一体がどうのこうの」とか偉そうに言うわりには「まし」になっていなかった。


球技下手な筆者のままであった。


結論を申し上げると「ましになっている♪」


4ゲームほどは「スカ」であった。5ゲーム目にようやく「本気で身体にまかせる」ことができた。


「打つ」という氣は満たすけれども、まったく力みなく立つ。バックスウィングもステップも使わず、ただ来たから振る、という感じである。


そう言いながらも、4ゲーム目までは「球筋を見極めよう」というような「意識」が働いていた。


5ゲーム目からの違いは、「「もう間に合わない」というあたりまで何も始めないというところであった。今一つは「骨盤も参加してね」という意識であった。時間がないから、もう何もできない。ただバットが軽く出るだけである。


しかしながら、我が人生の中で、もっとも遠くまでの打球が多発した。しかしながら、「手ごたえ」というのは実にない。


いつもの「ばしん」というボールの感触に「こなくそ」と打ち返すわりには、ピッチャー画像の横あたりをせいぜいライナーが飛ぶだけのものが、「ホームラン的」が掲げてある高さのあたりまでけっこう飛ぶようになった。三回連続したこともあった。


あくまでも「過去の筆者との対比」である。

だけれども「やり慣れていない」ことでの「明らかな差」というのは、筆者にとっては非常に満足であった。