1026話 H高校にて

木曜日


H高校・芸能科の演劇の授業。ゲスト講師として二回目。


二人ずつで「追憶の青いバラ」の1シーンを演じるのであるが、その際に「自分であって自分でないその役の人」の身体を感じてもらうために、椎骨を使って「君の感受性にない他人の身体はこんなんだよ」というのをやる。


アメリカ人のスポーツマンのジムならここに焦点がこなくっちゃ、とか「空想にふける少女・ローラならここに焦点がきてなくっちゃ嘘でしょ」というようなことをする。


他にも、たとえば、胸椎を使って「恋するからだ」を表出させる。


そうすることで「君が頭で考えて作ろうとするものでは、ずぇ〜んぜん足りないし、別もんだよね」ということを分かってもらおうという魂胆である。


演劇というのは脚本があるから、その話がどういう展開になるのか、というのは既知のことであるが、役者はそれを「初めて聞いた」こととして展開しなくてはならない(そうだ)。


「こうなって、こうなるから、こう受けて、じゃ、ここのところはこうしておくと都合がいいけんね」というものは、「段取り芝居」といって、少なくとも講師の八木氏は否定的である。


もっと目の前にいる相手と感情の交流があって、セリフや動きが自然に出てくるような質のものを、学生たちに体験してもらいたいと強烈に思っている(八木さんがね)。


なかなかいい部分とうまくいかないところがある。


色々と考えて工夫していることが、かえって功を奏していないところもある。


たとえばSD田嬢の今日の身体は、胸鎖乳突筋が緊張して、あごが下に引っ張られたような「氣の相」をしており、顔は前を向いていても、氣は斜め下に向かって伸びている。だから相手と向かい合っても「通い合うものが生まれない」のは必然である。


相手役のT内くんは長身であるから、S嬢が彼を見ようとすると見上げる形になるが、上の方にはまったく氣の伸びない「本日の体調=体勢」なのである。


芝居でそういうことはありえないが、筆者はS嬢をベンチの上に立たせて、相手役を「見おろす」かっこうでセリフを交わしてもらった。


見た目はこっけいだけど(シリアスなシーンだからね)、氣の交流、感情の交流という意味では、こうしないと生まれてこない。


だから、まずは身体を「まっさらに癖や力みを可能な限り減らす」が必要不可欠であると思うのである。


「それ」が生まれた時の感触を一度でも味わってもらわないと「できていないこともわからない」のである。


生徒一人一人の「整体上の氣の歪み傾向」に合わせるわけにもいかない。だって氣で読むと立っていない子だっているんだもの。(先週のO本さんとD井さんね)


実際にいい役者さんは「自分の身体の都合や事情」を越えて、きちんと他人になりきるわけだから、「やれる」と思っているのかもしれないけれど、今目の前にいる人と「向かい合っていない」ということを自覚できないと始まらない。


そのことをどうすれば理解できるのであろうか、ということを地下鉄谷町線での帰路、八木さんと話する。


濃密な関係。氣と感情の交流。感情の葛藤。真剣さ。


何を想定すれば「その感覚」を思い出してもらえるだろう。


そこで筆者は一つ「とってもいい例」を思い出した。


それは「やくざが一般市民を恫喝する際」もしくは「不良が気の弱そうなやつからかつあげをする」さまである。


あれぐらい『濃密な関係(先方が勝手に結ぶんだけど)。氣と感情の交流(脅しにかけひき)感情の葛藤(恐怖)。真剣さ』を感じる場は、なかなか思いつかない。不良たちは、実にたくみに「結界を張り、弱者の氣を押さえ込み、相手の一言一言をきっちりと受け止めては揚げ足を取っては」追い込んでいく。


実に見事である。


とってもいい方法だけど、公立高校の芸能学科の演劇の授業で、「心の底から不良になりきって真剣に『かつあげ』『恐喝』の練習」をするのはちょっとあかんな。


公費で建てた劇場の舞台上で「おぅおぅ兄ちゃん、ちょっと来てくれや、おう」というのは、やはり教育上好ましくない?と世間は判断するだろう。いいシチュエーションなんだけどな。


要するに、人と人が真剣に向き合っている場面というのが、他に適当なのがあればそれを採用すればいいのである。もちろんそれは学生諸君だけに限定の現象ではないだろう。


大人は「いつの間にか染まっているので気づかない」だけで、実は「最近の若いもの」に見える問題は、もっと根深く大人の方にはびこっているのだろうなあ。