1030話 ブログの裏側 1
大人の寺子屋の後半の「飲み食い懇親会的、つづき」の部で桃ちゃんから
「センセのブログを読むと、いつも楽しそうなんですが・・・?」
という質問が来た。
質問の正確な文言は忘れたが、筆者は「楽しそうなのですが、なぜですか、どうしてですか、実態はどうなんですか、楽しくないことは排除しているなどのルールがあって楽しそうな内容に特化されているのですが、ホンマに楽しいのだとしたら、それはどういうからくりが背景にあるのですか?」
という意味と受け取った。
その時にもごにょごにょとお答えしたが、何とお答えしたのか覚えていないということは、あまり適切なお答えではなかったようである。その証拠に翌日の月曜日になっても、その問題?についてこのように考え続けているではないか。
確かにブログを読むと楽しそうである。書いていても楽しい。では日常はホントは色々とつらいことがあるのだけれど、押し隠して楽しいことだけ書いているのかといえば、日常もホントに楽しいから、粉飾偽装ではない。
嘘八百並べているわけではなく、事実に基づいて合ったことを書いているだけなのであるが、あらため桃ちゃんから「楽しそうだ」と指摘を受けたときに、なにか見過ごしにできない「何か」があるような気がしたのである。
それで、月曜日の毎月恒例「お墓参り」の和歌山〜大阪往復車の往復で、徳永英明の「ボーカリスト3」を最大にかけつつ、歌いつつの4時間中でもずっと考えていたのである。
筆者の「楽しそう」の一因は、筆者が勝手に師匠と仰ぐ方の一人「椎名誠師」の影響があることは否めない。20代前半で師の著作にふれ、友人たちと無人島に行って、ぐびぐびとびいるを飲み、ぐいぐいとカヌーを楽しみ、たき火の回りで口から火を吹きながら踊る、というだぼだぼした日常(非日常)を描いたスーパーエッセイを読み、「楽しそうだ、うらやましい」と思い、一つのモデルとしている。
同様の日常の楽しさは、内田樹老師のブログでも描かれている。それらの文体、内容などが下敷きになっているのは確かである。
しかし、それだけではないようである。
最近、整体教室などで、受講されるみなさんによく言うのが
「誰のための整体ですか?いつ使いますか?どこで使いますか?」
ということである。その方の「知的好奇心」と言えば格好がいいが、要するに使う予定がないままの学びというのは「暇つぶし」と変わらない。吸引力が出てこない。
ところが、その方の「川下」が明確になると、それは講師であるこちらへの「吸引力」となり、こちらもどんどん発見が進み、整理が進み、受講されるみなさまへと流れ出るのである。
一昨年の9月下旬より一日も欠かせていないブログである。生活の一部になっているのは確かである。
すると、筆者の「川下」の一つが、この「ブログ」であるとも言えまいか。
このブログは自分自身の愚痴、ぼやきはほとんど書かない。色々な悪口は書くが、個人の批判や中傷は書いていない(つもり)。1000話以上も続くと、そういう「型」になっているようである。(続く)