1031話 ブログの裏側 2
このブログは自分自身の愚痴、ぼやきはほとんど書かない。色々な悪口は書くが、個人の批判や中傷は書いていない(つもり)。1000話以上も続くと、そういう「型」になっているようである。(より続く)
それを毎日続けることで、ブログという「下流、川下」が、日常生活の一こま一こまと、無意識にブログに書くのに相性のいいようなものへと軌道修正しているような作用が働いているのではないか、という仮説を立ててみた。
何となく納得するものがある。
ブログの他にも「研究ノート」や「日誌」や「記録」なども書いている。これらの恩恵も大なるものがあるが、書き手も読み手も自分である。これらの効果は、仕事上のスキルアップや軌道修正、後々のための資料としては大なるものがあるが、「楽しそうな毎日に生活がシフトしていく」という効果は薄い。
10年日記にも、そういう効果はない。
「椎名鋳型 内田鋳型」という「型」をそなえ、「最近一日500人を越える(ご愛読ありがとうございます(^-^))「読み手」がある、というブログの特性が、ますます日常を「楽しそう(実際楽しい)」ものにしているようには思える。
前記したように、筆者自身が、椎名師や内田老師の書く日常に「うらやましいなあ」と思って読んでいたのである。それらをモデルに書き始めたということは、つまりこのブログは意図的にかつ無意識に「読者の誰かをうらやましがらせるための中身」というフィルターがかかっているのである。
あれ、けっこう悪意に満ちたブログだったんだ。
日記は、自分自身が読者なので、「読み手の自分がうらやましくなる」ということはない。そういう内容は書かない。書くはずがない。
ゆえに筆者の書くブログは、筆者にはできて、他の人にはできる可能の少ないことを無意識に選択して書くことが予想される。つまり「どんなにお金があっても決して買えないもの」であるとか、「前提条件が他の人には真似しにくいもの」などがテーマになる。
金で買えない、真似できないもの、ということになると、「年月の積み重ねで身につけるもの」とか「人間関係」とか「その人間関係でしか成立しないこと」などがブログのテーマとなる頻度が高くなる。
すると、「自分が習得しつつあるもの」の習得には加速度がつき、筆者の友人知人会員のみなさまとの結びつきは、ますます強固になる。
楽しい日常をブログに書いているのではなく、ブログを書くことで日常がますます「楽しそうなもの」へとシフトしていっているように思えるのである。
ちなみに、筆者はこのことを証明しようとは思わない。証明するためには、逆の現象を一定時期実行すれば比較対照検討できる。
つまり、日々のブログで「世を呪い、世間に不信の目を向け、恵まれない人間関係を悩み、なかなか習得できないことに逆恨みし、感動できそうなものにいちゃもんをつける」ような内容に特化して書き続けるのである。
ううう、やだ。したくない。想定しただけで、悪霊怨霊不幸不本意フォースの暗黒面を招くような気がする。
それに、そういうことは、自分がやらなくても、他にやっている人はおられるようにも思うので、その方にまかせます。
ちなみに、その全てを説明するど、他人がさっさと真似できるようなものは、それができないように巧妙にネタもとを隠蔽する。
やはり、悪意に満ちたブログだ。
「やーい、うらやましいだろ」
というガキの自慢話のようなブログである。
それで分かった。
筆者が、頂いているコメントにほとんど返事を書かないのは、一人にお返事を差し上げると、全員に差し上げないといけなくなるので、それを避けたい、というのが理由であると思っていた。
違った。
このブログは「筆者が読者をうらやましがらせるためのリング」である。もしくは「畑」である。
ゆえに「うらやましがらせる情報の送り手」は筆者しかありえないのである。コメントの送り手との共闘で展開する、というのは予定に入っていないのである。
ううう、何という悪意に満ちたブログであろう。
もう一つ気づいた。
日常の楽しい側面をせっせと書く理由には、読者の中におられるすでに筆者と友人知人関係を結ばれた方々へと向けた
「ね、楽しそうでしょ、また遊んでね」
というメッセージでもあるのであった。
以上、桃ちゃん、答えになった?
また遊びましょう。