1038話 17日は京都でエコカフェ

これも『寺子屋』ネタ。


K都市の北青少年センターから、今年も「エコカフェ」講師の依頼を頂く。


町残しの専門家、ためさんによると「環境」という言葉に訳される「エコ」というのは、その語源をギリシャ語の「イノコス」(って覚え間違いかもしれない、こんな感じの音の単語)で、その意味は「環境」というよりは「関係」という意味合いであった、とのことである。


そうでしょう、そうでしょう。


八木氏に示唆を頂きながら研究を進めている「演技」というものも、決して単独では成り立つものでなく、相手役との「感情の交流」(筆者は氣の交流だと感じているのだが)があって初めて成り立つものだという。つまり「関係性の表現」である。


筆者が身体運動の参考として鋭意研究させて頂いている「武術(的)な動き」もまた、武術もまた「我彼を無くす」ことによって初めて「技」と言えるレベルのものが現れる。我彼を無くすというよりも「もともとその分け隔てがない」ということに「より質良くアクセスしたもの」が結果的に場をコントロールする。


筆者の本業である「整体」というのは、生命同士の響き合いである。


かかる日常を送る筆者には「エコとは環境にあらずして、関係にて候」なるためさんのご指摘は、諸手をあげて「その方がいいわい」と申し上げるものである。


環境の「環」というのは輪である。回りを取り巻くものである。境とは「さかい」である。自らと取り巻くものの「境」を意識するところから「環境」という言葉は生まれる。


生物と無生物のあいだ」で、福岡先生が看破されているように、細胞レベル、分子レベルでは「人間という固まり」はなく、そこにあるのは「流れの中で連続して現れる影」のような人間の肉体の実態である。


無数のものが、ある情報なり信号(筆者はこれを氣と呼びたい)によって、一定の秩序を表し続けているものが人間である。無数のものの集まりである。


ゆえに「我と彼は別物」という意識を休ませると、そこには二者が一体となる「なにか」というものが現れる。武術も整体も「それ」によって成り立っている。


二者が一体となると書いたが、実際には「もっと大きなものの一部同士が、その時に関係を濃密にしている」というのが、さらに実態だと感じている。


ゆえに、「環境」という言葉によってその「問題」を考えることは、本質から逸れてしまうだろうなあと感じるのである。


環境を考えることは、つまり「自分と回りの差、境目」を考えることである。違いに注目することである。


関係を考えることは、自らと対象の「共通項」なり「響き合うもの」を「感じる」ことであろう。


寺子屋』でS川さんは、「重力がないと生きていけないボクだから、まずは地球との接点(ふだんなら足の裏)を徹底的に意識することにした」と言われていた。


地球を無視しつつ乱雑・乱暴に足げにしつつ、そこで「地球に優しいを考える」などとうてい無理であろうとの気づきからであったという。


平谷さんは、野草を料理しない。道を歩いていたら、路傍の野草に呼ばれるのである。



「環境」は考えるものではない。関係を感じるものなのである。


ということで北センターの「エコカフェ」


環境を考える一連の講座としてのお招きであるが、上記の考察によって、まずは「環境問題とは今後どうすべきかを考えるものだ」という前提を壊さねばならない。「環境を考える」を「まずは関係を感じる」ことに改宗してもらうところに、筆者招請の意義ありと勝手に決めた。


ゆえに「最も身近な環境は身体からでっせ、ヨガ講座」


の募集を見て、「流行りのヨガだわん」と来られた方々は、関係性の技の数々によって、押さえつけても飛ばされ、並んで座ってころがされ、手をつないで並んで引っ張り倒され、肩を組んだとおもったら地にはいつくばり、といった「日本武術ならびに整体の関係性の技」によって、完膚無きまでに「今まで私の思っていた物理的存在の人間というのはいったいなんだったのかしらん」と混乱の極に追い込まれるであろう。


徹底的に追い込まねばなるまい。理解不能な状況になってこそ、筆者の行く意味があるというものである。


今の頭の回路に、ぴったりと収まりのいい話や体験は、決して「それ以後」を帰ることはない。家に帰る頃には、ほとんど消えているだろう。


と、意図しているけれども、その場に行くと、別の引力が働いていてここに予定・予告していたものとまったく違うものになることも予測される。その時は、そういう「関係性」だったのだ。


それではエコカフェ企画スタッフのみなさん、17日にお会いしましょう(^-^)


残念ながら、受講はすでに定員一杯だそうです。


※ちなみに11日の「自然体チューニング」は今10名で残り5名です。




それにしても、今もって寺子屋ネタが続いている。尾を引いている。引きずっている。



すばらしい。


つまりは、筆者はあの時の4時間を「消費」しなかったのである。種を蒔いたのである。脳みそも肉体も、ぶくぶくと泡立つどぶろく発酵中状態(って参加者以外は何のことかわかんないね)なのである。