1044話 やる 

説明できるようには書けないので、筆者ならびに稽古仲間の方々にのみわかる表現になるが、一昨日、「前後一歩の歩みの中に10種類の体癖がことごとくおさまった!」という感動的な体験があった。


「五相十癖 前後一歩の歩みの中にことごとくおさまれり!」とノートに大書した。


ここ数年の右往左往研究遍歴が、ひとつ峠を越えた。


この峠道はどこから続いているのか自問自答した。もちろん、ベースは河野智聖先生の「動体学」である。


しかし、それは探求の入り口ではない。それは「探求」の土俵に上げてもらうための重要なステップである。これなくして決して次へ進むことはできなかった。そうではなく、「解らないから追いかけた」道筋の最初の一歩がどこだったっけ、である。


そう考えると、二年前の年末。山田和尚・バウさんが、NHK短波ラジオの番組で、心道流空手の宇城憲治先生との対談の収録に「おいでよ」と呼んで下さった時が思い当たる。


対談の後半で、宇城先生は、バウさんになんとか本物の武術のすばらしさを知ってほしいと、何の用事もなくその場に居合わせた筆者をモデルにいろいろと演武してくださった。


その直前に宇城先生のご本は読み始めており、そこに書かれてあるとおりにやると、たちまちにして「統一体」が出来上がることは体験済みであった。


さらに、高いレベルのものを、その場でこの身で受けることができた。


しかし、なぜそうなるのかが解らない。


これは、筆者が受講生を非難する「なぜそうなるのですか?」とはいささかニュアンスが異なる。


つまり、理由を知って頭を整理したい、という欲求ではなく、これだけのすばらしい技は、自然現象、自然体、自然法則がベースになっているはずだ、という確信からの疑問である。


常識にはなっていないけれども、体育・スポーツ関係者がことごとく見落としているけれども、厳然とあるなんらかの「自然現象」にアクセスされているからこそ、できる技だと感じていたのである。


その「自然現象」「自然法則」が「何かわからない」という意味である。


そこで、それらの探求が始まった。生物の進化、お魚の動き、トカゲの動き、獣の動き、サルの動き、引力、背骨・・・・・・


体癖を追求した結果ではなく、無意識に宇城先生の後姿を追いかけてきた結果の「峠越え」であったと思い当たった。


だから、「三戦の型」をやり続けたわけではないのに、いわゆる「武術打法」のふもとにたどりついていた。並んで座る人を将棋倒しにするのも、そういえば宇城先生もされていた。


とにかく「峠を越えた」のである。まとまったのである。「ようやくパズルのピースが一通りおさまった」のである。


本当にうれしかった。


と思ったら、翌日に、日野先生によってまた奈落の底に突き落としていただいた。


今現在、日野先生がどうすごいのかさっぱりわからない。また探求が始まる。


いわずもがなかもしれないが、宇城先生が終わって日野先生、というのは宇城先生が初級で日野先生が中級とかそういう意味ではまったくない。そういう意味とくみ取られた方がもしあったら、それは誤解である。


宇城先生の後姿によって、筆者が筆者自身の課題にめどをつけた、という話であって、宇城先生の技術をものにした、というわけでは断じてありません。


日野先生の場合は、たとえば


「やる!というのは本当に『やる』ことであって、やっているような格好をすることでもなければ、やっていると思うことでもない。日野先生のレベルが『やる』ということであれば、(あるんだけど)、筆者は『やっている』とはとても口にできない。じゃあ、その怠け者の筆者が『やる』には・・・・


というようなテーマが浮かび、追いかけることになる、というようなことである。  


今度は何年かかって峠を越えるんだろう。