1045話 ぎゃ〜!

11日の「水色」さんのコメントを読んで、また思うことがあった。


凶器だ、劇薬だ!と混乱の中で書いた11日のブログで書ききれなかったことのひとつは、コンサートを貫かれていたのは、強烈な愛情に下支えされた挑戦状であった、ということである。


このコンサートは、日野先生の「還暦記念」「還暦祝い」である。


さらには、ゲストのピアノの田中武久さんは、74歳である。


ラ・フェスタ134というコンサート名は、二人合わせて134歳。還暦の「おっさん」と74歳の「じいさん」という意味である。


日野先生の真っ赤ジャケットは「還暦のちゃんちゃんこ」なのである。


そして、その「合わせて134歳のお二人」は、和やかに祝ってもらおうなんて、これっぽっちも思ってないぜ、という挑戦状がこのコンサートである。


そして、その演奏。


水色さんは


ドラムの生演奏は初めてで、何の先入観もなく観客席に座り、私は音・音楽を全身で感じるだけでした。

日野晃のドラムの音は、その音との出会いの瞬間・瞬間(の連続)はとって衝撃的でしたが、温かくて何の違和感もなく身体の中に入ってきました。
と書かれている。


うらやましい。


確かに。日野先生の音は体に入った。


しかし、入るには入るが、そのまま猛烈に突き抜けてしまい、受け止めることを許さないのである。


こちらの体の「雑さ」をあざ笑うのである。


どんなにザルの目を網の目を細かくしても、すり抜けていくのである。


おいおい、どうした。還暦のおっさんが(昔ならじいさんだ)やってんねんで。受けとれや、どや、おう、こら、受け取らんかい。


すり抜けるくせに、「すり抜けた痕跡」や「受け取れなかった痕跡」は強烈に残して通り過ぎるのである。


ほらほらほら、何してんねん。こっちへこんかいや。


お前のザルでは、すくわれへんで〜。


日野先生のブログを拝読すると、「誰もまともに人に向かい合っていない」という指摘が再々登場する。


するわけだ。


ああいうレベルを「向かい合う」と言うのであれば、人に向かい合っている人などほとんどいない。


観客に対して、日野先生はその全員と向き合っている。これを冒頭で「強烈な愛情」と表現した。


自分が自分に向き合う数十倍の密度とエネルギーで、こちらの「存在」に向き合われてしまった。


居心地が悪い。自分以外の人に、自分以上に「認められて」しまった。もしかしたら、親の中には、子ども自身以上に、その子どもを「認めている」親もあるかもしれない。でも、そこには親子という理由がある。


う〜、気づいたらますます気持ち悪く、居心地悪くなってきた。


理由や作為があれば、たぶん大丈夫である。理由も作為もなんにもないのに、強烈に向かい合われてしまった。存在を認められてしまった。


気持ち悪い。居心地悪い。


たぶん・・・。バランスを回復させようとおもたら、同程度がそれ以上の密度とエネルギーで「自分に向き合い」「自分の髄の髄の底の底」を認める(見つめる・感じる)必要があるんだろうなあ。


でも、それっていつでも自分を捨て去るのが可能というレベルの話だと推察される。う〜、冗談じゃない。なんて人だ。


・・・・・


と、ここまでをサラシャンティの帰りの電車で打った。


西中島のインターネットカフェで、アップするべくネットの接続した。




ぎゃっ


日野先生ご本人からコメント頂いていた。

・・・・・・。


下腹がねじ切れるかと思った。(嘘ではない)