1050話 知らぬものは語る

『 だから書く 』


ブログの1044話で、自分でも偉そうなことを書いているなと感じていたら、


読者の方からすかさず


「知るものは語らず、知らぬものは語るなんじゃないの?」


とのコメントを頂いた。実に的確な指摘だなあと感心した。この回は著名な先人に登場していただくことで、筆者に「はく」を付けようとするような「色気」を出して書いた回であった。


それでコメントには納得である。手練手管で書くもんじゃない。


この文言の「知る」の前に「真理を」というような言葉を足せば、よりコメンテーターの意図は理解できる


しかし、こうやってコメントで頂いて、じっくりじっくりこの文言をながめていたら、今まで自分の思っていたのとは別の意味が浮かんできた


『知るものは語らず、知らぬものは語る』


というのは、


『分かったようなことを言ったり書いたりするやつは、実はホントのとこ分かってないよ』


という意味だと思っていた。


「だから黙っとれ」とか「信用するな」という意味かと思っていた。そういう用法はあると思う。


しかし、ちょっと待てよ。


確かに、真理を解明し「知った」ものは、もう語る必用はない。


この場合の意味は


『絶対的な真理を体得し、その真理と一体化してしまい、三昧の境地となり、法悦となる。ゆえにその存在を見れば、見る者自ずから悟るところある故、語る必用はない』


といようなことになろう。これは「知るものは語らず」の解釈である。


その後である。


「知らぬ者は語る」の部分である。


よ〜く考えたら、「知るもの」も「知る」までは「知らぬもの」だったわけである。


じゃあ、その「後に知ることになったけど、駆け出しのころはまだ知らなかったもの」は、そうなるまではどうしていたんだろう。


知るものは、最初から知っていて、最初から最後までず〜っと黙っているというのでは、最初から知っているもの以外は、知ることはできないということになる。


それでは『格言』にする意味はない。


知るものも、最初から知っていた訳じゃないんだよ、という前提でなければさびしい。おかしい。


ならば、知るものは、知るまではどうしていたのか、というと2−1で答えは一つ。


たぶん、じゃんじゃん語っていたのである。


ゆえに筆者は、書きまくるのである。


自分が何をやりたいか、ということはやってみるまで解らないし、自分が何が解っているかということも、発信しないと解らない。


もちろん、今だ知り得る前であるので、その内容は的はずれも独りよがりも思いこみも未熟もあるのだ。当たり前だ。


そうやって発信するために、行動し、考え、まとめ、加筆し、推敲し、破棄し、書き直し、新たな体験を加え、考え、まとめ・・・をくり返すのである。


「知らぬ者は語らず」というコメントを頂いて、語らなくなるというのは、それは「知った」のではなく「知ったふりをしている」だけということになる。


しかし、筆者は筆者が「知るものではない」ということは知っている。


ゆえに、今黙ることは偽装工作である、という自覚がある。


どんどん恥をかこう。


そうやって、少しでもまともな方に向かうのぢゃ、という意味だったのだ。正しい意味は知らない。が、筆者にとって有益な意味は「知らぬ者は、語れ、書け。恥書いてでも前へ進め」なので、そちらを採用。


ということで、これからも語り、書きまくります。