1079話 スーパー緑くん その3

色覚少数派、色覚「異常」者のことを過去「色盲」とか「色弱」という呼び方をしておりました。今でもそういう言い方の方が一般の方々には通りが良いと思われます。


そこに流れる考え方は、


一般人=正常色覚 


色覚少数派=正常色覚から能力的に劣っている状態
         本来あるべきものが欠けている、
         もしくは不足している状態


というものです。


緑と茶色がごちゃごちゃで、ピンクと灰色の区別が明瞭でなく、紅葉がどう綺麗なのかわからず、焼き肉の肉が焼けているのか生なのかが分からない、という現象だけを見ているとそういう認識になるのも無理はない話なのです。


白井さんにお聞きした「色覚異常」のメカニズムは、あまりにも深く納得のいくお話でした。筆者、色覚少数派の親として「色覚事情」に関して、眼科医の専門家が書いた本も読んでおりましたが、白井さんの説明されたニュアンスというものはまったく皆無で伝わってきませんでした。


よーくお聞き下さい。心してお聞き下さい。


ひろきの目は、赤やオレンジが見えにくい目ではなかったのです。


緑色が見えすぎる目!だったのです!!!!


緑色に対する感度が良すぎるために、一般の人以上に三原色の中から緑色をピックアップして受け入れてしまうがゆえに、茶色の中からも緑色の要素を人並み以上に見てしまうのです。そして相対的に見ると、赤を読みとる能力が劣ってしまうのです。


ひろきの目は、スーパーみどりちゃんだったのです


スペシャル・グリーン・ウォッチャーだったのです!


というあたりまで説明を聞いた筆者ははたと思い出したことがあります。それは「イヌイット」(エスキモーというのは勝手に付けられた名前なので、最近はこう表現するらしい)の話です。


彼らの言語には「白」という色に対する単語が40種類以上ある、というのです。


日本語ではどうでしょうか。


白、真っ白、純白、白っぽいと、これぐらいで用は足ります。雪のようにとか白百合のようにとか、比喩を使ってもう少し増える程度。


イヌイットの「白40色以上話」を聞いた時に、まあねえ、冬の間は周囲は白一色だから、微妙な白の濃淡も見分けるようになるんだろうねえ、あははは」という程度の認識でした。しかし、それは「慣れ」という程度ではなく、本当に視覚能力としてそういう目の状態であるのでは、と思い当たりました。


つまり、微妙な濃淡に敏感になる、というレベルではなく、視覚領域の白に対する感度が「都会人」に比べて著しく発達して、その分、原色に対する感度を落としているという可能性さえあると思いました。


白一色の景色の中で、その中にいるウサギやらシロクマを容易に見つけることができないと、イヌイット生存戦略上著しく不利です。視界にほとんどない原色への感受性を白に振り向けることは決してデメリットにはなりません。


同様に緑に対しての感受性が著しく高いひろきの場合はどうでしょうか?


今の文明生活を前提にすると確かに不利なことばかりです。しかし、もし人類が森と草原の中で生活をしていたとすると、緑の感受性が高いということは、生存戦略上きわめて有利です。


芝生の上のバッタや見分け、益草・毒草の見分けを容易にし、というふうになるのではないでしょうか。そして、私たちのずっと前のご先祖さまは、その能力をふんだんに使って生き延びた時代があったのではないでしょうか。


白井さんによれば、


「この子は紅葉はよく分からないかもしれないが、春の新緑のころの緑の濃淡は、正常色覚者よりもよほど綺麗に奥深く多様に堪能しているだろうね」


とのことだったのです。


納得!!!!!

(つづく)