1085話 みらくるグリップ 後編

ここまで書いたら、ご本人からメールが来た。



こんばんわ!

ラクルグリップを2日間試した結果、

ボレーの技術が向上!振動を感じやすく扱いやすい!!

そして何より打ちにいかない!

というより打ちに行けないのでかなり落ち着いてプレー出来ました(^-^)


持ち方次第でこんなにも変わるものかとかなり動揺を隠せません(^_^;)

ラクル津田先生に感謝します(^O^)



勘違いである、筆者がミラクルなのではないのである。あなたがミラクルなのであるが、本当はナチュラルなのである。


体の中には誰しもそういうソフトが組み込まれているにもかかわらず、ほとんどの人がそれを無視していることさえ気づかないのである。そのソフトこそミラクルなのである。(でもしつこいようだけどナチュラルなのである)


さて、22日の「武術クラス」は徹底的に「ミラクルグリップとその応用による身体統一」を練習した。


電車の中を想定し、手すりのバーを握る、つり革にぶら下がる、座った時の座り方、本の読み方などである。人に話せば変な話である。


「武術のクラスで何やってんの?」


「うん、地下鉄の乗り方と座り方、電車の中でひまな時の本の読み方やで」


しかし、少しも変な話ではないのである。その「取り組み方および技術の中身」がホンモノであればあるほど、日常に応用が利かないはずがないからである。


逆に言えば、日常生活に使えない技術というのは、道場の想定された場面でしか使えない程度のものだ、ということになる。限定された場面でしか使いようのないものだ、ということである。


そういうものの習得に時間を割くのは当道場の目指すものとしては時間がもったいない。日常で使える、つまり日常生活こそが稽古であり本番であるものを追求するのである。


棒術の棒を地下鉄の手すりや電車のつり革に見立ててぶら下がり、横から力一杯「電車のブレーキ!、急停車!」とばかりに押すのである。


統一体につながる「ミラクルグリップ」をやっていない時にはふっ飛ぶ方々が、ミラクルグリップを心がけたとたんにびくともしなくなるのである。


その効果は551蓬莱の豚まんが「ある時〜!」「ない時…」の差のレベルではない。(って関西人しか分からないね、たぶんこのネタ)。


この日参加の方々は、これで電車の車内のみならず、包丁を持ってもペンを握っても、キーボードの前に座っても、テニスをやっても野球をやっても、ことごとく「統一体」「武術的身体」の訓練になるのである。


たとえば打撃系の武道に通って、電車の中や仕事中や家事の最中に「人をどつくこと」を常に想定していなくとも、別に責められはしないであろう。想定しているような人は、逆に「危ない人」として敬遠されるであろう。


しかし、ミラクルグリップならびにその応用の講習を受けた方々は、「いままでどおり」の「なんとなく」の電車の乗り方、つり革の握り方、カバンの持ち方、箸の持ち方、ペンの握り方をやっているということは徐々にできなくなっていくのである。


なんせ今までどおりなら疲れ、こわばり、効率が悪く、ミラクルグリップから派生する正しいやり方だと疲れず、ゆるみ、強くなり、結果が出るということを肌身に知るからである。


それはY田君の証言からも明らかである。ミラクルグリップというから「握り方」かというとさにあらず。自分が他者に接する時の接し方である。


自らの体癖を生かして触れていく。自らの芯で他者に向き合うということなのである。自らの芯をとらえることができたとき、他者の芯をとらえることができるのである。


ゆえに「電車ごっこ」に見えども、これほど武術のクラスらしいクラスはないと筆者は胸を張るのである。