1114話 S江さんへ 1

 
 
先日の研究会の感想ありがとうございました。いくつか補足説明をさせて頂きます。


整体というものが、「悪い部分」を矯正する手技のことだと思われている方が多いのですが、これはまるっきりの間違いであります。ご本人がまるごと元気になることが肝心で、「手術は成功したが助からなかった」というような医学の笑えない笑い話がありますが、あれと同じです。


その人全体が健康で元気になることが肝心であり、かつ一時だけ元気になっても仕方がないのでありまして、予定されている寿命の間に、「生きる」と言える中身で生ききる。これを整体では「全生」と呼んでおります。全生に向かう、近づけるということが整体の目的であります。


手技はそのごく一部で、実際には触れない部分での働きかけがメインといってもいいほど重要です。そういった部分が、芸事やスポーツや演技などと共通する人間の本質的な部分であると感じています。


部分を治しても仕方がない。全体が元気にならないと意味がないということですから、身体のどこかの部分に働きかけるとしても、それは全体の調和が取れる処(ところ)、全体のバランスが回復して生きる働きが活発になるところが大事であるということになります。


ところが人間というのは「人」の「間」と書くあたりが、古人はまことにものの分かった方々でありました。人間というのは、一人では存在し得ないのであります。


これを一人の人間の身体の部分と全体とで考えてみるとわかりやすくなるかと思います。その本人の全体とまったく関係のない臓器なんていうのがあれば、はなはだ迷惑であります。

その人全体にとって欲している食べ物がうまい胃袋がいい胃袋なのであります。胃袋が胃袋の好き嫌いを言い出してははなはだうまくいきません。またその人に害毒になるものは、速やかに排出する腸がいい腸なのでありまして、毒を吸収し栄養を捨てる腸がありましたらこれもはた迷惑なのであります。


胃袋が「私の生きてきた意味は何?」とか考えて、体外に「自分探しの旅」などに出かけようものなら、はなはだ困ったことになるのであります。


そういう「一人の中の部分と全体」という見方で、個人と回りとを見てまいりますと、人の「個」というものも、関係のある他者とのかかわりが持つ目的にとっての役割があって始めて、その人が「いかなる存在なのか」ということが明らかになってまいります。


ということは、回りとの関係のうまくいかない「健康」とか「全生」というのは存在しないのであります。


S江さんのご専門の演劇を、その観点から見れば、個人だけの演技というものは、そういう意味でいえばあるとは言えない。必ず相手が必用であります。(一人芝居などの例外はありますが、これだって観客との関係性を抜きにしては語れないと思います)


そうなりますと、俳優のことを「役者」、つまり「ある役割を担う者」と言うのはまことに言い得て妙ということになります。役というのは全体にとっての「役」でありまして、全体と関係を抜きにしての役というのはあり得ません。演技というものもありません。


私は、師匠から武術と整体をセットで学びました。武術といっても蹴ったり殴ったりして相手を破壊するような行為ではありません。自我意識をお休みさせて相手の攻撃的な行為を封じ、安寧な状態を作り上げるような力やスピードにまったく頼ることのない世界であります。


そういう稽古の一環として、たとえば手をつないでいる5人6人を、まとめて引っ張って倒すとか、横に並んで正座をしている人たちを5〜6人を軽く押して崩す、というようなものがあります。


そこそこできるようになっているので申し上げますが、これなど物理的な解釈ではまったく不可能であります。1対5で綱引きして物理的に勝てる訳がない。


ところが、自分を含めたその6人が一体になってしまえば、簡単であります。自分一人で考えれば、自分でこけようと思えば、自分はこけます。その6人全部を一人の人と感じていれば、こけると思えば全体もこけるのであります。だから不思議でもなんでもない。一体になればいい、自分がその全体の一部になればいいということであります。


同じ原理で一対一の整体では、相手の部分を自由にゆるめたり引き締めたりするのであります。それは自分が個として一点の響きをみずからの全身に響かせて、自分の心身をコントロールすることを学んだ結果であります。


原則として自分にできたことは他者とのかかわりの中においてもでき、一対一でできたことは一体多数でもできるのであります。それができるようなありようが、自然界やら生命の本質につながっているものであると思います。


このあたりのメカニズム・図式というのが、八木氏の目指す演劇には必用欠くべからずのものではないかと思うゆえんであります。(つづく)