1126話 何なんだろう

 
この日の「整体武術クラス」参加の幾人かの方は、筆者の技を体験しようと、指示された通りに筆者の腕をつかんだところでいきなり筆者が不機嫌になり、「ううう、違う!」と腕を振り払われた。


それも、つい近日まで筆者がまったく問題にしていなかったことである。


しかし、その時の筆者が感じたことを言葉に置き換えるなら


「馬鹿にすんな」


であった。


お気の毒なのはその受講生の方々である。


たまに来た方でも初めて来た方でもない。


定期的に少なくない回数を受講され、きわめて熱心に受講されている方である。


いつものように腕を取りに来たのであるのに、突如として「ううう、違う、」と腕を振り払われたのである。


感じたことを言葉にすると、それは「こちらのやろうとしていることをまともに受け止めようとしていない」という感触であった。


その時にやろうとしたことは、全身の力を一つにしたらこうなるよ、という技であった。


受けられる方々は、当然「全身の力を一つに」できない方々である。


だから、せめて「全身で受け止めよう」とすることで、少なくとも一回は、身体がそれを体験する。それを手がかりに、今の自分のできることとの差を感じ、今までとはまったく違う「それ」へと近づいていければ、というのが筆者の思いである。


それに対して「腰を抜いて手先でいなし、動きを分析しようとしている」と感じた。


できないことも自覚しないで、腰も入れないで受けて、できるようになってたまるか、と感じた。何を偉そうにしてんねん、と感じてしまった。


そこで一昨日の「演劇の研究会」で八木氏がやった「レピティション」(単語を繰り返す)という訓練を思いだし、やってもらうことにした。


二人向かいあって、意味の無い単語を、お互いにキャッチボールする。


一昨日に拝見したら、参加の役者の方々は、意図してではないが、会話する「ふり」をされていた。相手を受け止めてもいないし、相手に届いてもいないのに、あたかも届いているかのごとく単語はキャッチボールされている。


すくなくともその状況は、この訓練法を開発した人がさせようとしていることではないことだけは分かった。


我が道場でも、誰も相手を受け止めていないし、相手に届いてもいない。しかし、役者同士の場合は、「見た目がそれっぽい」ことができてしまうのだが、一般の方々なのでそれができない。できていないことは一目瞭然になるので、臭さがない分ましだ、というのが皮肉である。


ついつい「こういうふうにやれば届く」と気の誘導をしてしまった。ら、徐々にできてきてしまった。できないままに、悶々として頂いた方が長い目で見れば良かったような。


一方で、真剣に向き合うことをくり返しているうちに、道場の雰囲気がどんどんと良くなっていったのもほんとうである。真剣にしてなごやか。


その澄んだ感じに比べると、最初に腕を振り払った時の受講される方々の構えや心構えは、やはりよどんでいた。


あれこれ習いに行っている人ほど、よどんでいた。


そうか。


普通は習うというのは「やり方を覚える」ことで、「全身で受け止める」ことじゃないんだ。

じゃあ、俺はどうなんだ。