1127話 テニスレステニス
Y田君のテニスは、テニスをするととたんに「うまくいかなくなる」、という。
テニスコートに立つ以外の時間は、ずっとテニスを考えて、立ち、歩き、ものに触れる。
コートに立ったら、いわゆる「テニスのプレー」として習ったような動きは、一切忘れて、手足にまかせる。と、過去の自分では考えられなかったレベルの反射、打球、プレーができるという。
すこしでも「いわゆるテニス」をしようと欲を出し、意識的にやると、とたんにボールはオーバーしていく。
「テニス」っぽくない動きというのは、ニコニコしながら、普通に歩くだけである。大げさなバックスイングも、勝ち誇ったようなフォロースルーもない。倒れかけたら手が自然に出るようにラケットが出るだけである。
バックスイングもフォロースルーも極端に短い「バックハンド」のフォームは、ほぼ「カメハメ波」と同じになったらしい。
それで、つい3ヶ月までは打てなかった強い打球が飛んでいく。相手は、どこに打ち返してくるのかまったく読めずに途方にくれる。
プレーに意識を使わない他は、グリップとの触れ方、地面との触れ方を日常の中に落とし込んで意識しているだけのようである。
この3ヶ月の間、サーブの変化で言えば、最初は受けるコーチ仲間のめがねが飛んだ。
1〜2週後には同じコーチのラケットが飛んだ。
バウンド後が、さらに加速するかのように伸びるボールになった。
2週間ほど前には、受けたコーチのラケットのガットが一気に4本切れた。
最近は、受ける側は速いサーブにそなえているにもかかわらず、ボールが通り過ぎてからラケットを出しているという。
彼の思い描いていた、身体にまったく無理がなく、年齢とともに向上していけ、筋トレは不必要なテニスの原型はできたのかもしれない。
しかし、困ったことが起きている。
彼の仕事はテニスのコーチである。
分解したプレーの、意識的な練習テーマを伝え、見守り、習得させるのが仕事である。
そうやって段階的に上達していく、という結果を出し、興味を持続させ、さらに向上につなげていく、というサイクルの仲立ち役である。
しかし、今の彼の「信じられないぐらいの上達」というのは、いわゆるコーチが教えるようなこととは一切無関係に起こっている。だって、彼が得ているヒントは、テニスのど素人からもたらされているものなんだもん。
ひらたく言えば、教えられなくなっているのである。分解した中には、これの「納得のいく動き」などは一切含まれていない。し、彼自身、分解できるような質のプレーはしていない。
「あっ、そういうテニスっぽいことは一切しない方がいいです」
ということが、彼にとっての「正しいテニス」なのだから。
ということで、これからを考える時、現役復帰して、試合に出ていくことにならざるをえないY田君であった。
誰からも文句を言われない結果を出し、誰もが学びたくなるレベルに上りつめ、誰もが学ぶに値すると感じる速度でさらに向上していき、生徒のみなさんが「そのテニスが学びたい」というところまで行くしかないのである。