1144話 自意識

 
意識的な練習というのは、実らない。かわりに自己満足し、全体像を見えなくし、けがや故障の原因になるこわばりを生み出す。


世に「リラックス」の重要性を説くものは多い。しかし、リラックスしようとすることは「今、俺はリラックスしていないんだよ」と身体に話しかけていることになる。ここが脱力できない、だからそこをリラックスさせようという「意識的な努力」=自意識があらたなこわばりを作る。堂々巡りである。


リラックスできない時、全体がゆるまない時、多くの場合「では部分的なリラックスから始めて、それを全身にひろげていこう」というのが自然な流れであろう。


なぜなら、リラックスの逆の体力筋力をテーマにして、全身の体力不足と感じた場合に、全体が一気に体力アップするような取り組みをしている人を見たことがないからだ。せめて「足腰から」とランニングを始めたり、スポーツクラブに行って身体各部分を時間と体力の許す範囲で部分的に鍛えて、鍛える部分を増やすことで、足し算で結果的に体力がアップした、という状態を目指すのが一般的であろう。圧倒的多数がこのサイクルである。


部分を足すと全体になる、というのはいったい何が保証してくれているんだろう。


リラックスの重要性は否定しない。しかし、重要なのは「今リラックスしているなあ」と「自意識」を喜ばせることではなく、常にリラックスできる能力を養うことである。


癒しの音楽をかけ、薄暗い照明にし、アロマの香りが漂い、マッサージなどをしてもらったりするとその時はリラックスするだろう。


しかし、問題はリラックスできる環境で、リラックスするようなことに包まれてリラックスすることではなく、肝心な時にリラックスできない私の能力、本当にリラックスしないといけない状況になればなるほど緊張する私の性癖であろう。


我が身一人もリラックスできないのであるから、せめて部分的にでもという方法は、とてもいい方法・・・などではない。


効果があるのは逆の道である。我が身一人の心配をするからこわばるのである。コピーをしてでも二人分の身体を意識し注視すると、自意識で凝り固まった我が身はどどんとリラックスするのである。


さらに前後左右と我が身をあわせて5人分心配(心を配る)するとさらに質よくゆるむのである。息を吸うときは5人の代表として吸うのである。吐くときも動く時も同じ。


人数を増やせば増やすほど自意識はお休みせざるを得ない。するとたちまちリラックスしているのである。