1149話 靴話


豪雨の和歌山を車で出発して尼崎へ。


シャロームでバッティング練習をそそくさと行う。


Y田くんの敗戦を筆者なりに検討する。


分解したプレーのひとつひとつはご本人もびっくりするぐらい上達している。それは間違いない。ごくごく一部のみの情報ならびnに稽古回数しかないK山君も、それらを手がかりにして身体感覚を磨き、Y田くんの靴を黙って持って帰ろうとするぐらいに、違いが分かる状態になっていることからも「今までの練習では得られなかった何か」をつかみつつあることが分かる。


A崎さんも先日、意図しないでいきなり「セカンドセルフが降りて、私でない私が意識的な私を凌駕するプレーをしてとまどいながらも再現したいのよ〜」とメールで絶叫していた。


みな等しく「部分的には」革命的に変化している。


しかしながら、思った以上にそれらが発揮できなかったY田くんのプレーをどうとらえればいいのか。


身体を部分的に分解的に分析的にやったのではいけないよ、という立ち位置から考えた「全体的、自然な」プレーではあった。


しかし、それはスイングという部分的なものを全体的な視点で再構築したのであって、試合という全体を考えたものではなかった。(なんせ、筆者は未だにテニスのルールを知らない)


コートがあって、ネットがあって、もちろん相手がいて、という全体像からさらに視点を広げて考えてみようと考える筆者であった。


さて、筆者のバッティング練習の場合。


今まで身体の全体性やらバットや地面との関係性という視点の改良でそれなりに伸びてきたけれども、最近伸び悩んでいる。


なるほど。打った瞬間に走りはしないけれども、ピッチャーは同じタイミングで投げてくるし、実際のプレーの現場とは全然違うというところから視点を持たないと、伸びはしれている。


ということで、向こうから飛んでくるボールを、センター方向の壁にある穴(実際にはないけれど)に入れる「お仕事」だと思ってバッターボックスに入った。


しかも、自分自身のプレーの結果が、シンクロして動く4人の「セカンドセルフ」の結果になる、という前提である。


自分一人でない、という前提にすると、個人の工夫の時とはまったく視点も動きも変わる。疲れるプレーも、無理なフォームも、やけくそのスイングも自動的に排除される。


無理のない、無駄のない、繰り返しのきくフォームを無意識に選択するようになる。


あれれ、センター方向の壁の1.5メートル×3メートルぐらいのセンター名を書いた看板に連続して当たる。


「打とう!」というのと「あそこに入れるのが仕事だ」と思うのとでは違う。


まっ、本気で野球をやっている人には「あったりまえ」のことかもしれないが、筆者としては久々に「上達したやんけ」という感触を得た。


いずれにしても、部分のグレードアップを持って「よし」とするのではなく、最終形から逆算して何が求められているのか、というのを割り出していくということを肝に銘じる。今晩の「演劇研究会」でもその視点で見直すことにする。


母上を乗せて亡父の墓参り。岐路、ホームセンターへ立ち寄り「たびぐつ売り場」へ。


M安さんご推奨たびぐつ「寅さん」黒色、3Eを探しに行ったのではあるが、残念ながらなかった。


「寅さん」はなかったが「大とうりょう」という新ブランド発見。


もちろん「大統領」ではなく「大 棟梁」である


スポーツシューズ売り場ではまったく心が動かない筆者であるが、作業服売り場では血湧き肉躍るのである。


はやり廃りのあるファッション性よりも、機能第一・実用一点張り・職人の「仕事しやすさ」というフィルターにかけられて生き残った「道具」たちには心をそそられるのである。


「たびぐつ」にもいろいろあり、たびぐつGとかたびぐつHGなどもある。


もちろん、「ハイグレード」では「ない」


つま先部分が「落下物でも安心」の剛性を持つという意味で「G」はグレードではなく「ガード」である。


HGは、高い部分までガードされているという「ハイ・ガード」である。


もしかしたら、「たびぐつ」に引き続き「安全靴」の中にももしかしたら「スーパースポーツシューズ」があるやもしれぬ。


心躍る作業靴売り場である。