1150話 自意識

セカンドセルフで何かをやるということは、自意識を低下させた状態である。


自分が満足のいくプレーというのは(この場合フォームであって、結果ではない)自意識が満足する状態であって、無意識ならやるであろうプレーが押し込められている状態である。


この二つを連続してやってもらうことで、その決定的な差を実感する日々である。それは今までの自分の稽古というのは一体なんだったんだ、とショックを受けると同時に、これからは「もっとましになれるだろう」という希望の薄日が射す日々でもある。


空手やボクシングなどは経験ない方々にその二つで実際にキックミットを叩いてもらう。


素人のパンチにもかかわらず、セカンドセルフに「つられるように」無心に出したパンチは、受けてを身体ごと後方に持っていく。しかも、身体の芯にショックが来る。


一生懸命「強いパンチを出そう」とした時にどうなるか、というとミットの表面ではじけるけれども、まったくショックは伝わってこない。


二つを見比べて驚いた。そうなるはずである。セカンドセルフはミットに近づくほどパンチは加速していくのだけれど、一生懸命強いパンチを打とうとした時には、加速して出発したはずのパンチが、ミットに近づくほど急激にブレーキをかけて減速していくのである。


加速しながらぶつかるものがショックを与え、ブレーキをかけながらぶつかるものが「へなへな」になるのは客観的に見れば当たり前であるが、当事者の感覚とはまったく違う。


どうやら、自意識でパンチを打つ人は、パンチを打つ腕に「それなりの」「それっぽい」手ごたえがほしくなるようである。そこで感じている手ごたえというものは、実は全力でブレーキを踏むその足の力み(実際には腕だけど)を持って「強いパンチの手ごたえ」だと錯覚しているのである。


本人の自意識が「強いパンチを打った」と感じる度合いが強いほど、実は「パンチにブレーキをかける力が強い」ということになる。練習で「強いパンチを打った」にもかかわらず相手に効かないと、もっと「ブレーキの力み」を効かせたパンチを繰り出そうという恐ろしい負のスパイラルに陥ってしまう。


一生懸命にやるほど、下手になるか故障をするというとってもおかしな話だけれど、実はスポーツや武道の世界で日常あまりにもよく見る光景の背景がそういうものであるようだ。


本人が「いい」と登録しているものが実は「まったくの勘違いだ」ということが自意識主導の練習では日常茶飯事であるということなのだ。本人が「納得のいく」ようにしてはいけない、場面が多々あるということなのだ。



昨日の演劇研究会も「それ」であった。


八木氏は、お集まりの役者のみなさんに、実に簡単なセリフを伝えた。


「入っていい?」


「あ、どうぞ」


「今何時かな」


「ごめん、わからない」


「時計持ってないんだ」


「うん」


「一つ聞いていいかな?」


「何?」


「昨日の夜 何してた?」


「えっ。別に何も」


「ごめん変なこと聞いて」


「いいよ」



と、ざっとこの程度のセリフを、何の状況設定もないままにやってもらう。男女なのか、同世代なのか、何歳ぐらいの会話なのか、演じる二人同士も何ら打ち合わせはしない。


すると、そこには


「自分の考えたキャラクターと背景や状況を懸命に身振りやしぐさで説明し、演じようとするぎくしゃくとした役者が二人いた」という場面が現れた。見ているこちらは、役者が「表現しようとしている」情景を見て、その先はこういうパターンかこういうパターンになるように持っていこうとしているんじゃないかな?と「考えさせられた」のである。


設定は何も変えずに、ただセカンドセルフを意識するという条件を加えたら、場が激変した。


さらに、研究会でやっている「重心位置による感受性の変化」とか「キャラクターのにじみ出る個性」などは単独で実験的にやるからできるけれど、実際の舞台ではどこに立って、何を手にして、という「必用な段取りや身振り」などの約束事がたくさんがある。実際にそういう場面になったら、そういった単品では魅力的なメソッドも通用しないのではないか?という疑問が前々回にS本H子さんが言っていた。


そこで、「座布団を勧める」とか「問いかけるところで、相手の身体にタッチする」という「条件」を加えた。


普段通りに「考えて芝居してもらう」とこれはもう完全にお手上げ状態。相手に触れに行く必然性がないのを、触れに行かざるを得ないというあたりで、空中分解を起こしてしまった。


セカンドセルフでやってもらう。自意識をお休みさせ「感じる」スイッチが入った状態である。


場も展開も激変した。刻々と進む一つ一つのセリフが出てくるたびに、こちら側の想像力がどんどん引き出されて、この娘たちはこういう子なんだろう、こういうことを聞こうとしているんじゃないか、きっとこういう背景なんだ、ということを勝手に感じだすのである。


傍観者として先のしかけを推理しているのではないのである。いつのまにか当事者ではないものの、その場の「目撃者」として透明人間としてその場に居合わせたような人間になってしまっているのである。


それがどれくらいのグレードであったかというと、見終わった後に、見た側はもちろん演じた二人までもが「この続きが知りたい!」「観たい」と悶々とした、というものであった。


そこで、台本にはないところを即興で足してもらうことにしたら、10分近くの時間、見る側を釘付けにした「場」が延々と続いたのである。実は、まだまだ続けることが可能な状態であったのが、S藤さんの帰宅時間が来てやむなく断念した、というところであったのだ。


自意識をお休みした状態だと、いきなりこれだけのものが、役者としてのキャリアはほとんどない演者から出てくるのである。


役者同士が、今そこに生まれてくるものを感じて、それに自然に引き出されながら表現すると、そこには観客をも巻き込んだ未知の世界の探求の場が生まれるのである。


八木氏が毎回熱く語る「演劇」というものがどういうものであるか、ということを初めて知った気がした筆者であった。


スポーツでも武術でも、やる側の自意識が手ごたえを感じるものが、いかに的はずれなのか、自意識がどれだけ「本来の能力をそこなっているか」は知っていたが、演技という場でもそれがどれだけ「表現したいものとは違うもの」を観客(および相手役)にもたらしているか、ということを知ったのであった。