1167話 予定通りうまくいかない


 
バッティングということをずっと考えていて、物理的に「ボールが、ほぼホームベース上を通過する地点で」、バットを直角に当てればいいというシンプルな図式に気づいたのが数日前。

ホームベースから離れるほど、まともに当たらなくなるという当たり前のことが見えておりませんでした。


来たボールは一生懸命追いかけているけれど、ちゃと仕事場で仕事をしているかどうか、ということは考えていなかった。どこが仕事場なのか、という見方自体がなかったのである。


ひろきと一緒にバッティングセンターへ行った時に、彼の打撃を見ていて、外野まで吹っ飛んでいく時は、ホームベース付近でボールをとらえているのに、ぼてぼてと内野を転がる時にはボールをとらえるポイントが、たいていホームよりも前に出る度合いが高かった。


そこまでバットを出すと、身体は崩れているし、バットの軌道も水平ではなく斜めになっている。


結果として力のない打球がぼてぼてと転がることになる。


しかし、そういうことに今までまったく気づいていなかったかというと、そうでもない。


打ち損じはたいてい前に泳いでいる自覚はあった。


だからといって、手元に呼び込もうと「意識する」と、力んでうまくいかない。


もしこれを人に指摘されたとしても「わかってんねんて。わかっているんやけど難しいの」などと口答えして、あるいは意識しすぎてさらにバランスを崩すのがおちである。


「前に泳いでいる自覚はあった」という一言がくせ者である。


前に泳いでいるというのは、体勢の崩れの自覚であって、どこでボールとバットが当たったのかという正確な認識ではない。


そこで、一球ごとに実際にボールとバットが当たった場所はどこか、ということを打った直後にバットの先をそこへ持っていくというチェックを試みた。


びっくりするぐらい「どこでヒットしたか」という自覚がない。まったくないわけではない。高めか低めか内か外かぐらいはボールが来ている時から分かる。しかし、これはピッチャーの球がどこに飛んできたかという記憶であって、自分がどこで当てたかという記憶ではない。


ホームベース中央を基準点とすると、そこから何センチぐらい前後しているか、ということになると、実にいい加減である。


しかし、何度もくり返していると徐々にこのあたりで打ったということがわかり始める。


わかり始めると、実に楽しいことになった。


もちろん、いきなり快打連発というわけではない。


ちゃんとホームベース付近でとらえた球は、実に高率で糸を引くように外野に向かって飛び、ホームベース付近でとらえる『つもり』で振りながらも、そこから10センチから数十センチピッチャーよりで打った球はことごとく凡打になっているという現実が見えてきたというのが楽しいのである。


振りを「遅らせたつもり」の時も、ちゃんとバットは先に出て凡打。思いと現実はまったく違う。


「こんなはずじゃないのに」「何で?」


などという言葉や思いは、現実が見えていないから出てくる。


打てないようなことをしているから、打てないということが目の当たりにされると実に嬉しい。


それは打てるようなことをすれば、打てるにつながるのである。


もちろん、ここで「よしもっと引きつけて打とう」などと「意識」しても結果は改善されない。


しかし、淡々と打撃点を一球ごとバットの先で指し示しながら、打つときには身体にまかせていくと、徐々に打率が上がってきた。


やるのは身体だ。信じてまかせればいいのである。


意識は、もっともっと現実を正確に把握するのに使うべきものなのだ。


しかし、実際にはことごとく意識は現実を見ずに虚構を作る。やっている「つもり」「はず」の世界である。そして実際の動く際には思いつきでああやれこうやれと身体に指示し、限りなく上達から外れていくのである。