1185話 うまくなるということ 1

人様にいろいろとお教えして生業としているわけですから、筆者の仕事と「練習」とか「上達」いうことは切っても切れない縁があります。


演劇でもダンスでも歌でも上達を目指して練習します。筆者の道場でも整体や武術やヨガを「練習」します。


今までまったく見過ごしていたのですが、この「上達を目指して練習する」というあまりにも慣れ親しんだ世界にとても不思議な現象が起こっていたのです。


練習は何のためにするのでしょうか、というと「まだ出来ないことを練習してできるようにする」ということで異論を挟む人はいないと思います。


もちろん出来るようになったことのレベルを落とさない、という面もあるでしょうけれど、そういう人だって、もっとできないことができるようになったらいいな、とは思っているでしょうから、やっぱり「まだできないことを、練習してできるようになるためにする」ということは反対する人はいないでしょう。


つまり、今から練習することは「まだ出来ないこと」なのです。つまり練習の成果が出た自分というのは、どういう自分かわかりません。要するに


「練習というのは、未だ出会ったことのない自分に出会うため」


にするのです。すでに体現している自分だったら練習はいらないのです。


だから、今のお話をして首を横に振る会員の方々はおられません。みなさん深く同意されて、未知の自分に出会うべく練習を始める…はずなのですが、その先がどうもおかしいのです。


じゃあ「未知の自分に出会うために、どんな練習をすればいいのか」という問題です。


「徹底してやりこんで、無意識にやってもできるようにするんだ」


なんて過去に言われました。


つまり「自然にできるようになること」を目指しているのですね。


このことを裏返せば「最初は無意識にはできない」と言っているのです。あまりに常識であるために、そうは言われていませんがつまり「意識的にやれ」と言っているのです。


さらにしつこく表現を変えるなら「自意識で身体にこういうふうにやれということをちゃんとしっかり命令してやれ」と言っているのです。


だから、ここで決定的な矛盾が生まれます。


だって練習というのは「今の私が体験したことのない境地を体験できるようにするために」やるものだったはずです。目指しているのは「未だ出会ったことのない私」なんです。


つまり、今一般的に言われていることは


「やったことのない境地のことを、やったことのないあなたが、勝手にたぶんこういうものだと決めつけて、そこに近づくはずのことをくりかえせ」


という図式になるのです。


そこでやむなく、自分よりもできている人の動きを真似て繰り返すということになります。


野球のバッティングで考えましょうか。


ほとんど打てないあなたは、打てている人の外見の動きを真似ます。それで来たボールを「打とう」としてバットを振ります。がたいていは当たりません。空振りです。


するとたいていの人が首をひねります。自分の頭の中では打てるはずだからです。


打てている人の真似をしている訳ですが、それは外見だけなのですね。つまり、打っている人の意識だとか内面だとか、さらには体感というものは実はまったくの手つかずなのです。だから打てている人と同じように振っているはずのスイングは、実は同じかどうか、というのはまったく何の根拠もありませんが、そのことにこだわっている人はまず見かけません。


つまり、ほんとうは「これで打てる」というイメージには、意識や内面や体感がちゃんと打てるものになっているということが必要不可欠なのですが、それは「未だ出会っていない」ので思い浮かべたり思い出すことはできないのは当たり前です。


にもかかわらず「これで打てるはず」と思い、空振りし、「おかしいな」と首を振ります。


何回も振っていれば、そのうちバットに当たる場合も出てきます。さらに打ち込んでいくと鋭いセンター前ヒットなんかも打ち返したりします。するとご本人は


「そうそう、これが俺が『やりたかった』バッティングだったんだよ」


と何の根拠もなくうなづいたりするのです。


おかしいですよね。実はさっきまでほんとうはどう打ったらいいのかということは、かいもく見当がついていなかったんです。


実際に頭に思い浮かべていたことは「前に打ち返したい」ということで、どんなふうにバットコントロールをしてどういう軌跡で振り、なんてことは当てずっぽうに部分的に意識したりしていなかったり、というのが実情のはずです。


それが証拠に「じゃあもう一回やって見せてよ」ということになると、とたんに打てません。


俺がやりたかったことがやれたんだったら、詳細を正確に再現出来るはずですが、繰り返しますが、「できるようになった自分」というのは「未だ出会ったことのない自分」ですから、事前に正解をイメージできている確率というのは、ほんとうにゼロに近いのです。


だからその場にいるのは、前々からやろうとしていたバットスイングで結果を出した自分ではなくて、当てずっぽうで振っているうちに、前々からできればいいなと思っていた前にボールをたまたま出会い頭で偶然に打ち返しただけの自分なのです。


つまり、前々から意識していたスイングが現れていたのではなく、自分が意識してやってもできなかったこととは違うスイングが、無意識に現れた、ということの方が明らかに実情に近いのではないでしょうか。


ところが、あなたの意識は「前々から意識してやろうとしていたことが、練習の結果やっと無意識にできるようになった」という納得のストーリーを描きます。


ほんとうにそうでしょうか。


いきなり結論めいたことに飛びますが、実際は「最初から無意識=身体に任せておけばよかったのに、自意識がさんざんじゃまをした」ということの方が実態に近いのです。