1186話 うまくなるということ 2

さて、7月13日から劇団未来さんが主催してくださった「演技の本質を探る」ワークショップが始まります。


筆者は八木さんとともに講師をつとめるために、「上達する、うまくなるにはどういうことが必要なんだろう」ということを整理しようとこの一文を書いています。


そこで演技と、ここまで書いたスポーツを比較すると、スポーツ(この場合はバッティング)の方が上達に関して少し有利かなと感じることがあります。


それはバッティングの場合は、正確にヒットを打ち返さない限りは、本人も周囲も「失敗」ということが明白である、ということです。どんなにすばらしいスイングに見えても、ヒットにならなければ、それは「よく見えるスイング」であって、「いいスイングではない」と事実ありのままを認めざるを得ない部分です。


どうすれば上達するか。どういう練習が上達するための練習か、という問題です。


バッティングであれば、ヒットにできるボールを、ヒットにできる形でバットに当てることがうまくなる、ということがテーマです。


自分がどういう動作をしたら、結果ボールはどこへ飛んだ、あるいは何センチ空振りした、という二つをすりあわせて、自分が飛ばそうと思っている地点に対して、どれだけ結果がずれたか、ということを限りなく近づけていくというのが練習です。


スポーツと演劇とを比べてスポーツの方が上達に有利だな、と思うのが、上記のうちの「結果がはっきりと目に見える」という部分です。


結果が明白ですから、後は自分がどういう動作をしたらそういう結果になったのか、という「自分が何をやったのか」ということをはっきりさせればいいのです。


当然「そんなんあたりまえやんか、さっきの自分ではうまくいかんかったら、一球ごとに脇を締めたり、グリップを下げたりいろいろしとるんや」という反論があるでしょう。


つまり「自分は何をやったかを知っている」という反論です。


いえいえ。自分で自分が何をやったかがわかっている人というのはきわめてまれです。ほとんどいません。人のバッティングを見ていたらわかります。


振りに行った瞬間からあごが上がってまったくボールを見ていないプレーヤーなんてざらにいますよね。はたから見たら「ボールを見ないで打てるわけないやろ」と一目瞭然なんですが、本人は「おかしいなあ」と首を振っていたりします。プロだって首をひねっている場面を見るぐらいです。


本人はちゃんと打てる打ち方をしたと思っているのです。


ここに恐ろしい誤解があります。実は、本人が覚えているのは、実際に自分がやった動作ではなくて、「自分がやろうと思った動作」なんです。


簡単な実験でわかります。


目をつぶって顔の前に曲げた片腕を突き出します。そしてその腕がどこにどんな角度で曲がってあるか、ということを腕があるはずの空間に思い浮かべます。そして目を開けて確認します。


講習会でこれをやって「ここにあるはずの腕」が「ちゃんとそこにあった」という方にはお目にかかったことがありません。みなさんずれまくってます。腕だろうとかいているあぐらの足の角度だろうと、みんなずれまくってます。


ところがここでも恐ろしい人がいます。目を開けた瞬間に記憶をねつ造する人です。目を開けた瞬間に見えた像に、事前に思い浮かべた像をずらして重ね合わせるのです。


そこで、最近は「ここに肘がある」ということを目を閉じている間に指さしてもらうことにしました。これで記憶をねつ造することはできません。やっぱりみんな思いと実際はずれまくってます。


何も持たない固定した腕でさえ、それがどこにあるのか正確には把握していないのです。バッティングならば1キロ近い重いバットを、100キロを超える時速のボールに向かって振り出すのです。正確に腕とバットの位置や軌跡を把握出来ている方が奇跡です。


つまり、練習でやることの一つは、自分が今何をやっているのかということを正確に把握する能力を高める、ということなのです。が、これをやっている人はめったにお目にかかりません。


ない袖は振れないはずですが、実際にはそこにない腕を振ってそこにあると思いこんでいるのがほとんどの人なのです。だから、その後に出る結果は偶然でしかないと言い切るのです。


皮肉ですが、意識した通りに身体が動いたからヒットになったのではなく、意識したのとは違うことを身体がやったからヒットになったのです。


こういうことはまったく珍しいことではありません。


会話の途中で相手が怒り出します。「いえ、そんなつもりで言ったのではありません」と言いますがますます相手の人は怒り狂います、なんてことは日常よく体験します。


怒らせたあなたは「そんなつもりで言ったのではない」ということにこだわりますが、相手が怒り狂っている以上、あなたが相手が怒り出すようなことを言った可能性の方が圧倒的に高いと考えた方がいい。


しかしほとんどの人が相手の怒りの方が理不尽だと感じるのです。相手の感じ方に問題があると思っています。それは「私に相手を怒らせる意図がない以上、私は相手が怒り出すような言い方や内容は言うはずがない」という思いこみです。


でもほとんどの場合は怒りだした相手の方が正しいのです。だってあなたが怒り出す側に回った経験を思い出したら、確かに相手は怒りたくなるようなことを言ったはずです。


さきほどの「曲げた腕」の実験でもわかるように、人は「自分がやろうとしたこと」は自覚がありますが、実際にやっていることはほとんどずれているのです。そしてそのずれを自覚している人がまずいないのです。


結果が明白に出るバッティングで、まったく結果が出ていなくても、「自分がやろうとしていることと実際にやっていることの差」を問題視する人はほとんどいません。ですから、「どれぐらい結果がずれているか」が明白でない「演技」の「練習」では、100%が自分の思いこみだけが支配します。


ところで、では自分が今「実際にやったこと」が明らかになってくるとどうなるでしょうか。


ここに救いがあります。自分がやった動作を正確に感じようとするだけで、実は急上昇で結果が出てくるのです。


つまり「もっと引きつけて打とう」と「思っても」前に流れ続けていた身体が、自分の目の前の空間のどこでバットがボールに当たったかというのを一球打つたびに確認するだけでヒット性の打球が増えるのです。


あるいは、自分が構えたと思っているところにちゃんとバットがあるかどうか、というのを確認してから(たいていずれている)打った時の方が、バットがボールをとらえる率が高いのです。


つまり「こういう打ち方をしなさい」ということを一切指令しないで、今自分はこういう動作、行為をしているということの正確な把握に意識を向けるだけで、身体が勝手に結果を出し始めるのです。


つまり、まだ出会っていない自分を無理矢理に描かなくても、「今やっていること」を感知するだけで、ちゃんと「まだ見ぬ自分」が結果を出してくれるのです。